聖書メッセージ『いのちの袋に』(Ⅰサムエル記24:1~7)

聖書箇所 Ⅰサムエル記24:1~7
24:1 サウルがペリシテ人討伐から帰って来たとき、ダビデが今、エン・ゲディの荒野にいるということが知らされた。
24:2 そこでサウルは、イスラエル全体から三千人の精鋭をえり抜いて、エエリムの岩の東に、ダビデとその部下を捜しに出かけた。
24:3 彼が、道ばたの羊の群れの囲い場に来たとき、そこにほら穴があったので、サウルは用をたすためにその中にはいった。そのとき、ダビデとその部下は、そのほら穴の奥のほうにすわっていた。
24:4 ダビデの部下はダビデに言った。「今こそ、主があなたに、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ。』と言われた、その時です。」そこでダビデは立ち上がり、サウルの上着のすそを、こっそり切り取った。
24:5 こうして後、ダビデは、サウルの上着のすそを切り取ったことについて心を痛めた。
24:6 彼は部下に言った。「私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。」
24:7 ダビデはこう言って部下を説き伏せ、彼らがサウルに襲いかかるのを許さなかった。サウルは、ほら穴から出て道を歩いて行った。

 

説教要旨
本日は、24章、25章、26章を見ていきます。ここで取り上げられていることは「柔和」でしょう。柔和とは、物腰が柔らかく穏やか、でもどこか頼りないというようなイメージを持たれるかもしれませんが、聖書において柔和とは、自分に対し悪を行う者に忍耐強く仕返しをしないこと、主なる神の手に委ねることを表しています。24章:サウル王は、ダビデがエン・ゲディの荒野にいるとの知らせを受け、三千人の精鋭と共に捜しに出かけました。サウル王は、用を足すために一つの洞穴に入ったところ、奥にダビデとその家来が隠れていたのです。ダビデの家来は、ダビデに「今こそ主があなたの敵を渡される時」と述べました。(v4)ダビデは立ち上がり、しかし手を下さず、サウル王の上着の裾を切り取り(v4)、その後、その行為さえ「心を痛めた(v5)」のでした。ダビデは、家来に「私が、主に逆らって、主に油注がれた方、私の主君に対して、…手を下すなど、主の前に絶対にできない(v6)」と言い、家来を説き伏せました。(v7)サウル王は、そのまま洞穴を出て行きました。26章:ダビデは、自分を再び追ってきたサウル軍の宿営に入った時、彼らは深く眠っており、一緒に行った家来アビシャイはサウル王を殺すことを申し出ましたが(v8)、ダビデは再びサウル王を「主に油注がれた方(v9)」と言い、枕元にあった槍と水差しを持ち帰り、自らが決してサウル王の命を狙おうとしていない証拠としました。愛せないと苦しみ祈る中で、主が私たちを導かれる到着点は、主がその人を見る眼差しで、私がその人を見るということです。神が創造され、キリストが命まで差し出して下さった人であるとの眼差しです。(ローマ14:4、15)


25章は、このダビデの柔和な姿と異なる姿があります。ダビデは、カルメルで事業を起こし、大変裕福な生活をなし、羊の毛の刈り取りの祝いをしていたナバルの下に、十人の若者を遣わし、食料を与えて欲しいと願い出ました。ダビデたちは、ナバルの若者たちが羊の世話をしている時、警護の働きをし、当時の社会の慣習に従って謙遜に正当な報酬を求めたのでした。しかし、ナバルは、申し出を退け、ダビデの若者たちを罵ったのでした。(v9~v11)若者たちから報告を受けたダビデは、直ぐに家来に剣を身につけよと命じ、復讐に向かいました。(v13)途上においても「あの男は善に代えて悪を返した(v21)」と、ナバル一家を滅ぼそうと怒りに燃えたぎりました。ここにはダビデの口から24章と26章のサウル王の時に述べた「主」という言葉が一度も出てきていないのです。「神(v22)」という言葉は出てきています。その時、ナバルの若者の一人が、ナバルの妻アビガイルに、ナバルが取った不遜な態度を知らせ、アビガイルは食糧を載せ、ダビデの所に向かい、ダビデを見るや否や、地面にひれ伏しました。アビガイルは、夫の不遜な態度を深く謝るだけではなく、預言者的な言葉を述べました。主がダビデを王とされること、そして王となって行く時、この復讐の罪がダビデの歩みを汚すことのないようにということでした。(v28~v31)ダビデは、アビガイルの言葉を受け、復讐を止め、食料を受け取っただけではなく、主に立ち返り、主をほめたたえたのでした。「主」という言葉を再び使うようになっております。(v32~v34)

 

サウル王に対しダビデを柔和にさせていたのは、主なる神であり、ナバルに対し柔和を失ったのは、主なる神を見失っていたからであり、そのようなダビデを守り、柔和へと立ち戻らせたのは、主なる神であられました。「主」とは、神を表しておりますが、もう少し深い意味があり、私たちとの関係性のことが強く意識され、私たちを救い、ともにおられ、守り、祝福の内を歩ませて下さる神を表しています。私たちは弱く失敗多き者ですが、主なる神は、聖霊はその私たちを愛し、真の柔和な者へと造り変えて下さいます。御言葉を通し、また人を通し、私たちに語りかけておられます。「主によって、いのちの袋にしまわれて(25:29)」おるのです。