聖書メッセージ『神の愛の贈りもの』(ヨハネ3:16)

聖書箇所 ヨハネ3:16
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。


説教要旨(クリスマスイヴ礼拝) 
ヨハネ3:16は、「聖書の中の聖書」と言われます。第一に、「神は世を愛された」のです。聖書の最初には、「初めに、神が天と地を創造した(創世記1:1)」と書かれています。この世界をお造りになられた神がおられるのです。そして、私たち一人ひとりは、神に造られ、生かされているのです。神が造られた被造物、例えば、あたたかな太陽、満天の星空は、神がおられることを表していると聖書は語ります。しかし、私たちは、その神に背を向け、離れ歩んでいます。神との関係が壊れているために様々な罪の歩みがあります。ヨハネ3章には、ニコデモという人物が出てきます。老年であり、宗教指導者であったニコデモは、夜イエスの所に一人訪ねました。彼は、真面目に、礼儀正しく生きていました。訪ねた理由は最後まではっきりと分かりません。でも、イエスとの会話の中で伝わって来るのは、老年となるまで立派に道徳的に生きてきたが、どこか満たされない思いがあったようです。続く4章には、サマリヤの女性が出てきます。彼女は、五度結婚に失敗し、六人目の男性と同棲していました。彼女は、人目を避けるために最も暑い正午に、井戸に水を汲みに来ました。彼女は、井戸の水を象徴とする目に見える物質的なもののみを求め生きていました。その中で、イエスは、彼女に「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。(ヨハネ4:13~14)」と仰せられました。宗教指導者ニコデモとサマリヤの女、境遇が対照的な二人です。でも、その根っこは一つであったのです。神との関係が失われていたことでした。神は、ご自分に背を向けている「世」を愛しておられます。「愛する」とは、「アガパオー」という言葉で、「ほんわか、優しい」というような愛ではなく、「価なき者を愛する」愛です。「覚悟の愛」と言ったらよいでしょうか。


第二に、その神の愛の現われが、「ひとり子をお与えになった」ということです。神は、関係を壊した私たちにご自分から関係の回復を与えて下さいました。神は、聖く、義なるお方であられますから罪を嫌われ、正しくお裁きになられます。罪を曖昧にし、容認なされるお方ではありません。しかし、神は価しない者、裁かれるべき者を愛し、失うことを悲しみ、救おうとして下さったのです。二千年前、ユダヤのベツレヘムに独り子イエス・キリストを人としてお遣わし下さり、私たちの罪の身代わりに十字架にお架けになられました。父なる神の苦しみはどれほどのものだったでしょう。そして、キリストは、神の御子の栄光を捨て、人としてこの地に来られ、三十歳から公の働きをされ、最後には父なる神の計画に従われ、自ら十字架に架かって下さいました。十字架上で息を引き取る直前に「わたしは渇く(19:28)」と仰せられました。神に捨てられる渇きでした。そして「完了した(19:30)」と仰せられ、ご自分を父なる神にお渡しになられました。


「それは、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」サマリヤの女は、キリストと出会い、水を汲むための水がめを置き、町に出掛けていき、「わたしは救い主に会ったかもしれない」と人々に伝えました。ニコデモは、没薬とアロエを混ぜ合わせた香料30㎏を持って出て来て、イエスの埋葬を行いました。彼らは、イエス・キリストのことが全て分かったわけではありませんでした。でも、キリストと出会い、内から何かが変えられたのです。満たされたのです。満たされ愛の行為となったのです。この聖書の言葉において「世」と「信じる者」の「者」に「自分の名前を入れて読むように」と言われます。世界のクリスマスですが、私のクリスマスです。「神の愛の贈りもの」、永遠のいのちを与えるために来て下さったキリスト、身代わりに十字架で死なれ、しかし復活され今生きておられるキリストを信じ、永遠のいのちをいただきましょう。