聖書メッセージ『ダビデの弱さ』(Ⅱサムエル記13:20~29(13章・14章))

聖書箇所 Ⅱサムエル記13:20~29(13章・14章)
13:20 彼女の兄アブシャロムは彼女に言った。「おまえの兄アムノンが、おまえといっしょにいたのか。だが妹よ。今は黙っていなさい。あれはおまえの兄なのだ。あのことで心配しなくてもよい。」それでタマルは、兄アブシャロムの家で、ひとりわびしく暮らしていた。
13:21 ダビデ王は、事の一部始終を聞いて激しく怒った。
13:22 アブシャロムは、アムノンにこのことが良いとも悪いとも何も言わなかった。アブシャロムは、アムノンが妹タマルをはずかしめたことで、彼を憎んでいたからである。
13:23 それから満二年たって、アブシャロムがエフライムの近くのバアル・ハツォルで羊の毛の刈り取りの祝いをしたとき、アブシャロムは王の息子たち全部を招くことにした。
13:24 アブシャロムは王のもとに行って言った。「このたび、このしもべが羊の毛の刈り取りの祝いをすることになりました。どうか、王も、あなたの家来たちも、このしもべといっしょにおいでください。」
13:25 すると王はアブシャロムに言った。「いや、わが子よ。われわれ全部が行くのは良くない。あなたの重荷になってはいけないから。」アブシャロムは、しきりに勧めたが、ダビデは行きたがらず、ただ彼に祝福を与えた。
13:26 それでアブシャロムは言った。「それなら、どうか、私の兄弟アムノンを私どもといっしょに行かせてください。」王は彼に言った。「なぜ、彼があなたといっしょに行かなければならないのか。」
13:27 しかし、アブシャロムが、しきりに勧めたので、王はアムノンと王の息子たち全部を彼といっしょに行かせた。
13:28 アブシャロムは自分に仕える若い者たちに命じて言った。「よく注意して、アムノンが酔って上きげんになったとき、私が『アムノンを打て。』と言ったら、彼を殺せ。恐れてはならない。この私が命じるのではないか。強くあれ。力ある者となれ。」
13:29 アブシャロムの若い者たちが、アブシャロムの命じたとおりにアムノンにしたので、王の息子たちはみな立ち上がって、おのおの自分の騾馬に乗って逃げた。


説教要旨
11章・12章におけるダビデの姦淫と殺人の罪に続き、13章・14章でダビデ家に苦しみの事件が起きました。長男アムノンが異母兄弟タマルに恋をし(13:1)、従兄弟であり友であるヨナダブに促され、仮病を使い、彼女を辱めました。辱めたその時から、彼女を憎むようになりました。ここで「恋(13:1、15)」とありますが、「愛」ではなく、肉的な自己中心的なものでした。父ダビデは、事の一部始終を聞き激しく怒りましたが(13:21)、アムノンを厳しく咎めることはしませんでした。それはアムノンを甘やかしたと言えるでしょう。(Ⅰ列王記1:6参照)また、アムノンがなした性的罪は、自らがバテ・シェバになしたことと重なっていたためとも思われます。タマルの兄アブシャロムは、二年後、羊の毛の刈り取りの祝いのとき、アムノンを殺害し、逃げました。ダビデ王は、アムノンの死を深く悲しみ、三年もの間、アブシャロムに会いに出ることはなかったのです。


ダビデと息子アブシャロムの深められた溝を、イスラエルの将軍であり、ダビデの甥でもあったヨアブは、賢い女性をダビデに遣わし、埋めようとしました。ダビデは、これに促され、アブシャロムを連れ戻すよう告げました。(14:21)しかし「息子」とは言わず、「若者」アブシャロムと言っています。アブシャロムはエルサレムに戻りましたが、ダビデは二年間彼に会おうとしませんでした。ヨアブの仲介により、ダビデは、アブシャロムを呼び寄せ、和解のしるしとして口づけしました。(14:33)しかし、15章を見ると、アブシャロムは父ダビデに謀反を起こしています。二年前、アブシャロムがエルサレムに戻った時、ダビデがアブシャロムを迎え入れていたら違っていたでしょう。ダビデは、アブシャロムを赦せなかったのでした。

 

以上、アムノンがタマルを犯し、家庭に苦しみが起きた出来事です。アムノンの自己中心的な欲。アブシャロムの憎しみ。そして、何よりもアムノンに厳しくすべき時に厳しくできず、アブシャロムを赦すべき時に赦せないダビデの罪の弱さがありました。その背後には、バテ・シェバとの罪がありました。何とも根深い人間の罪を見ます。罪が複雑に絡み合い、人が傷つき、命が奪われ、赦しがないのです。ダビデは、名君でした。しかし、そのダビデさえも根深い罪の性質を抱えていました。(ローマ7:24)そして、人間の罪が溢れている中で、最も悲しみを負ったタマルが置き去りにされています。世は罪の暗闇に支配されています。しかし、聖書は「光はやみの中に輝いている(ヨハネ1:5)」と告げます。ダビデ王家の悲しみとダビデの弱さは、真の王が待ち望まれました。そして、二千年前、神は、真の王、救い主イエス・キリストをこの世に与えて下さいました。イエス・キリストは、私たちを愛し、罪から救うために人としてこの地に来られ、私たちの罪の身代わりに十字架に架かり死んで下さいました。そして、罪と死に勝利され、死の中から復活され、助け主なる聖霊を与え、今も生きて私たちとともにおられます。イエス・キリストは、沈んでは立たせ、私たちの魂を深くお取扱い下さるのです。ぎりぎりの所で守られていくのです。また、タマルのごとく深い悲しみに遭うことがあります。父ダビデも慰められず、また兄アブシャロムのアムノンへの復讐は彼女を真に救わなかったでしょう。私たちも時を経ても疼く痛みがあります。孤独を覚えております。(13:20)でも、イエス・キリストは、私たちとともにいて下さるのです。「思い煩いをわたしの胸の中に眠らせよ」と仰せられています。そこに静かな慰めと希望が備えられます。イエス・キリストは、十字架で辱めを受け、死の中から復活されたお方であられるからです。復活されたイエスの手には釘の跡が残っていたのです。悲しみを知る救い主です。


私たちは、世の光イエス・キリストを待ち望み、救いの光の中を歩ませていただきましょう。イエス・キリストに悲しみの重荷をお委ねし、日々、立ち上がらせていただきましょう。イエス・キリストに真の救いがあるのです。