聖書メッセージ『主が私に』(Ⅱサムエル記16:5~14(15~17章))

聖書箇所 Ⅱサムエル記16:5~14(15~17章)
16:5 ダビデ王がバフリムまで来ると、ちょうど、サウルの家の一族のひとりが、そこから出て来た。その名はシムイといってゲラの子で、盛んにのろいのことばを吐きながら出て来た。
16:6 そしてダビデとダビデ王のすべての家来たちに向かって石を投げつけた。民と勇士たちはみな、王の右左にいた。
16:7 シムイはのろってこう言った。「出て行け、出て行け。血まみれの男、よこしまな者。
16:8 主がサウルの家のすべての血をおまえに報いたのだ。サウルに代わって王となったおまえに。主はおまえの息子アブシャロムの手に王位を渡した。今、おまえはわざわいに会うのだ。おまえは血まみれの男だから。」
16:9 すると、ツェルヤの子アビシャイが王に言った。「この死に犬めが、王さまをのろってよいものですか。行って、あの首をはねさせてください。」
16:10 王は言った。「ツェルヤの子らよ。これは私のことで、あなたがたには、かかわりのないことだ。彼がのろうのは、主が彼に、『ダビデをのろえ。』と言われたからだ。だれが彼に、『おまえはどうしてこういうことをするのだ。』と言えようか。」
16:11 ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。「見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。
16:12 たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」
16:13 ダビデと彼の部下たちは道を進んで行った。シムイは、山の中腹をダビデと平行して歩きながら、のろったり、石を投げたり、ちりをかけたりしていた。
16:14 王も、王とともに行った民もみな、疲れたので、そこでひと息ついた。

 

説教要旨
15章~17章は、アブシャロムが父ダビデに謀反を起こしたことが記されています。アブシャロムの謀反は巧妙で、四年をかけて「イスラエル人の心を盗んだ(15:6)」のでした。多くの者がアブシャロムにつきました。中でも、ダビデの頭脳、アヒトフェルを自分の側につけました。(16:23)

 

ダビデは、エルサレムを離れました。ダビデについてきた者たちもいました。彼らとのやりとりの中でダビデの魂の状態が表されています。15:24~29。祭司ツァドクとエブヤタルが、神の契約の箱をかついで来ました。ダビデは、ツァドクに述べました。「神の箱を町に戻しなさい。もし、私が主の恵みをいただくことができれば、主は、私を連れ戻し、神の箱とその住まいとを見せてくださろう。もし主が、『あなたはわたしの心にかなわない。』と言われるなら、どうか、この私に主が良いと思われることをしてくださるように。」(15:25~26)」主なる神に自らをすべて委ねています。15:30。「ダビデはオリーブ山の坂を登った。彼は泣きながら登り、その頭をおおい、はだしで登った。…(15:30)」涙を抑えられないのです。息子に裏切られた悲しみ。その背後には、アムノンを諫められず、アブシャロンを赦せなかった自分の弱さ。その根っこにあったバテ・シェバとの自らの罪。罪の弱さを嘆いています。16:5~14。サウル王家のシムイが蔑み、家来アビシャイがそれに怒り、シムイの首をはねさせてほしいと述べると、ダビデは告げました。「彼がのろうのは、主が彼に、『ダビデをのろえ。』と言われたからだ。…ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」(16:11~12)」罪の故に自らが神に裁かれるべき者であることを認め、主にお委ねし、主の憐れみを待ち望んでいます。魂が神の前に低くされています。


アブシャロムは、ダビデをどうするかで、アヒトフェルとダビデの忍ばせたフシャイに助言を求めました。アヒトフェルは、直ぐに追い、ダビデのみを捕えるべきだと述べ、フシャイは、ダビデに逃げる時間を確保するために、北から南までイスラエルの全軍を集めた後、その全軍を従えて、アブシャロム自らが出ていき捕えるべきだと述べました。アブシャロムは、自らのプライドを満足させるフシャイの助言を聞き、直ぐに追わず、ダビデは逃げ、戦いに備えることができました。神は、ダビデをアブシャロムの危険から守り、人を備え、救いの道を備えていかれたのです。(17:14)(17:26~29)ダビデは、罪の弱さがありました。失敗がないことは尊いことでしょう。でも、神が求めておられることは、失敗のない、立派な完全な人ではなく、自分の弱さを認め、魂が真に砕かれ、主の憐れみに拠りすがる人です。ダビデの尊さは、そこにあったのです。イエス・キリストは、十字架上で自分の罪を認め、神の裁きに服し、「救ってください」とは言えず、「イエス様、あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。(ルカ23:42)」と願った一人の犯罪人を、決して蔑ろにされませんでした。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。(ルカ23:43)」と。神の御国は、自分の罪を認め、神の憐れみに拠り頼む者たちのものです。ダビデは、アブシャロムから逃れた時、歌っています。「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。(詩篇3:5)」そして、ダビデは、晩年歌っています。「あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ…(詩篇23:4~5)」


神は、自らの罪を認め、主に自らを委ね、神の憐れみに拠りすがる者を決して捨てず、一つひとつ祈りの中で導かれ、人を備え、救いの道をご用意下さるのです。それを味わい知り、神に栄光を帰していく者、救い主であり、主であるイエス・キリストを証する者へと導かれて参りましょう。