聖書メッセージ『主の前を歩む』(Ⅰ列王記2:1~4)

聖書箇所 Ⅰ列王記2:1~4
2:1 ダビデの死ぬ日が近づいたとき、彼は息子のソロモンに次のように言いつけた。
2:2 「私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。強く、男らしくありなさい。
2:3 あなたの神、主の戒めを守り、モーセの律法に書かれているとおりに、主のおきてと、命令と、定めと、さとしとを守って主の道を歩まなければならない。あなたが何をしても、どこへ行っても、栄えるためである。
2:4 そうすれば、主は私について語られた約束を果たしてくださろう。すなわち『もし、あなたの息子たちが彼らの道を守り、心を尽くし、精神を尽くして、誠実をもってわたしの前を歩むなら、あなたには、イスラエルの王座から人が絶たれない。』

 

説教要旨
礼拝式でダビデの生涯を見てきました。本日は最後となり、ダビデが死の日が近いことを自覚し、息子ソロモンに語った言葉を見ます。ダビデは、遺すべき言葉を持っていました。「強く、男らしくありなさい。(v2)」これは「勇ましさ」とは異なっていました。(v3)強くあるとは、神の御言葉に聴き従い、神に信頼し、務めに生きることでした。(ヨシュア記1:7~8参照)ダビデは、王として重い責任がありました。数々の試練がありました。自らの大きな失敗もありました。そのダビデがソロモンに遺した言葉は、複雑ではありませんでした。神に素朴に信頼し生きることでした。


そうする時に、神の祝福を約束しています。(v3)神は、御言葉に聴き、ご自分に信頼し歩む者を祝福の内にお導き下さいます。苦しみがなく、自分の願ったように全て事が運ぶということではありません。でも、神は、ご自分に信頼する者を支え、一つひとつ神の御名が崇められる道をご用意下さるのです。さらに、ソロモンが神に信頼し生きる時、Ⅱサムエル記7章で神がダビデに約束された王朝の祝福を告げました。ダビデの家系から救い主が生まれ、救い主が治める天の御国が世に建てられていくことを表していました。神は、私たちをご自身の御業にお用い下さるのです。教会がこの地に建てられているのは、私たちが神の祝福の中を歩むだけではなく、神の祝福の御業がこの世にもたらされていくためです。私たちが救いに与り、主日毎に神を礼拝し、持ち場に出ていくのは、私たちが神の恵みと平安の内に守られその場で生きるだけではなく、「地の塩」「世の光」として、罪に覆われ痛む世に神の恵みと平安を分かつためです。その使命の喜びの中に歩んでいくことができるのです。

 

しかし、ダビデのこの言葉に、私たちは自分自身を思い、不安に思うのではないでしょうか。神に信頼し従っていくことができるのかと。しかし、その時に、「わたしの前を歩むなら(v4)」との言葉が胸に響きます。「わたしの前を歩むなら(v4)」とは、どういうことでしょうか。そうです。主がともにおられるのです。私たちが主とともに歩むので、主はともにいて下さるのではありません。主が私たちとともにおられ、その主とともに歩んでいくのです。ダビデの生涯は、失敗のない歩みではありませんでした。神の命令を破り、聖い神の前に立ち得ない者でした。にも関わらず、神ご自身がダビデを捨てず、憐れみ、悔い改めへ導き、自ら関係を回復され、祝福をもって導かれたのです。それは、私たちにして同じです。神は、私たちが神を愛したから愛して下さったのではなく、ご自分に背き、罪の中にあった私たちを一方的に愛し、御子イエス・キリストを与え、御子イエス・キリストの十字架の故に罪を赦し、神とともに生きる者として下さったのです。そして、助け主なる聖霊を与え、神に従う力をも与えて下さいます。そうして、神が下さる祝福の中を歩ませ、神の祝福の基としての使命を担う喜びの歩みへと導かれていくのです。それが、ダビデ自身が生涯を通し味わったことでした。「主は私の羊飼い(詩篇23:1)」と。そして息子ソロモンに遺しました。「羊飼いなる主の御声に聴き従え」と。

 

神の愛、イエス・キリストの十字架の愛と復活のいのちの中で、聖霊の力により、神の御言葉に聴き従いましょう。そして、神が下さる祝福の内を歩み、神の祝福の基としての使命に生きて参りましょう。また、ここでダビデがソロモンに信仰の言葉を遺しております。私たちは神と共に生きる幸いを、次世代へ証していく務めが神から託されています。聖書の教えが全て分かり、細かく説く必要はないでしょう。神の愛の中で、神に素朴に信頼する幸いを存在、言葉、行ないを通して引き継いで参りましょう。非の打ちどころのない歩みを通してではありません。ダビデがそうであったように、罪と弱さを抱え、だからこそ憐れみの主に拠りすがる歩みを通して信仰が引き継がれ、主が証されていくのです。