聖書メッセージ『苦しみを喜びとして』(コロサイ1:24~2:5)

聖書箇所 コロサイ1:24~2:5
1:24 今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。
1:25 私は神から委ねられた務めにしたがって、教会に仕える者となりました。あなたがたに神のことばを、
1:26 すなわち、世々の昔から多くの世代にわたって隠されてきて、今は神の聖徒たちに明らかにされた奥義を、余すところなく伝えるためです。
1:27 この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。
1:28 私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています。すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるためです。
1:29 このために、私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。
2:1 私が、あなたがたやラオディキアの人たちのために、そのほか私と直接顔を合わせたことがない人たちのために、どんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。
2:2 私が苦闘しているのは、この人たちが愛のうちに結び合わされて心に励ましを受け、さらに、理解することで豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを知るようになるためです。
2:3 このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。
2:4 私がこう言うのは、まことしやかな議論によって、だれもあなたがたを惑わすことのないようにするためです。
2:5 私は肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたとともにいて、あなたがたの秩序と、キリストに対する堅い信仰を見て喜んでいます。


説教要旨
パウロは、2章の後半で教会に入った誤った教えをいよいよ具体的に批判していくにあたり、本日の箇所で自身の務めとコロサイ教会への思いを告げ、批判の足場作りをしました。パウロは、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしていると述べます。(v24)パウロの苦しみは、コロサイ教会のためのものでした。「キリストの苦しみの欠けたところを満たしている(1:24)」とは、キリストの十字架の贖罪の御業に欠けがあったということではありません。前後の文脈から、自分の身をもって、成熟に向かっている教会の欠けを満たしているということです。具体的には、教会に仕え、キリストを人に宣べ伝え、キリストにある成熟した者として人を立たせるために奮闘することでした。(1:25~29)コロサイ教会が愛の内に建て上げられ、励ましを受け、イエス・キリストを深く知っていくことに苦闘したのです。(2:1~2)また、コロサイ教会が誤った教えに惑わされないように苦闘したのです。(2:4)私たちも苦闘しています。キリストを宣べ伝える苦闘、霊的に成熟し愛の内に建てられる苦闘、誤った教えや世の価値観ではなく神の言葉に立つ苦闘があります。教会において見える部分が成長していくことは大きなことですが、最も大切なことは私たちが霊的に成熟していくことです。ますますキリストを知り従い、キリストに似せられ造り変えられ愛の内に建てられていくことです。それが最も大切なことですが、最も難しいことです。牧師として闘いがあります。執事の務めを担う闘いがあります。主の教会の一器官として歩む闘いがあります。教会を外から見ていたならば覚えない痛みがあります。

 

では、苦しみだけか。決してそうではありません。「苦しみを喜びとしています(1:24)」喜びとするのは、第一にイエス・キリスト御自身の故です。(1:26~27、2:2~3)明らかにされた奥義、イエス・キリスト。私たちを愛し、十字架に架かり死なれ、復活され、私たちを罪の支配から解放し、罪を赦し、傷のない者とし、ともにおられるイエス・キリストの故に苦闘を喜びとしています。第二に教会が建て上げられる喜びです。(2:5)人にキリストを宣べ伝え、その人が救われ、成熟し、ともに建て上げられていく喜びです。これ以上にまさる喜びはありません。会堂ができた、牧師館ができた、こういう活動が行われた、いずれも大きな喜びです。でも、最大の喜びは人が神に立ち返り、キリストにあって新しく生きるようになった喜びです。キリストを信じた人が、キリストのからだなる教会に連なる者とせられ、ともに成長していく喜びです。教会において重荷や犠牲を避ける歩みは、傷つかないかもしれません。でも、真の喜びに与ることはないでしょう。教会との距離を置きたくなることもあります。教会で深く傷つけられるような経験があったならば尚更でしょう。回復に時を必要とします。でも、教会の重荷を負い犠牲を払う所に、すでにそれを先に負って下さったキリストをいよいよ知り、教会が建て上げられる喜びに与ることができるのです。

 

パウロは、苦闘の原動力を述べます。「このために、私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。(1:29)」私たちの内に力強く働くイエス・キリストの力によってです。キリストが私たちとともにあり、すべてをご存知で、慰め、立ち上がらせ、支え導いて下さいます。その御力によって、その御力によってだけ教会を建て上げ、キリストを証しする務めにあたることができるのです。「奮闘しています(1:29)」と現在形で述べています。苦闘に終わりはないのです。しかし、キリストご自身も私たちとともにいて力づけて下さるのに限界はないのです。

 

弱さや恐れを覚えるからこそ、イエス・キリストの御力に拠り頼み、教会を建て上げ、キリストの証に生きる者とせられ、主の教会を建て上げることにおいて労苦し、しかし、そこにあるイエス・キリストを知り、キリストの教会が建て上げられる真の喜びの中を歩ませていただきましょう。