聖書メッセージ『家庭の教え』(コロサイ3:18~21)

聖書箇所 コロサイ3:18~21
3:18 妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。
3:19 夫たちよ、妻を愛しなさい。妻に対して辛く当たってはいけません。
3:20 子どもたちよ、すべてのことについて両親に従いなさい。それは主に喜ばれることなのです。
3:21 父たちよ、子どもたちを苛立たせてはいけません。その子たちが意欲を失わないようにするためです。


説教要旨
本日は、家庭生活の教えを見ていきますが、それに入る前に3:12~17と3:18~4:1の教えの関連性を覚えます。「教会」と別個で「家庭」又は「社会」があるのではなく、教会の交わりの中で「家庭」「社会」の歩みがあるのです。教会の交わりの中で「忍耐」「赦し」「愛」を学び経験し、ともに御言葉に聴き養われ主に賛美を捧げ、その霊的交わりに置かれつつ「家庭」「社会」の歩みをなしていきます。「礼拝」と「生活」を分けてしまうのではなく、主日に礼拝を捧げ、そこから礼拝の生活をなしていく。再び主日に神に呼び集められ、御言葉に聴き、賛美を捧げ、交わり、再び生活の場に遣わされていきます。その生活の最初の場は「家庭」です。

 

夫婦の教えから始まります。家庭の中心は夫婦であるからです。「妻たちよ…夫たちよ…(v18、v19)」と、妻と夫への教えですが相互に補い合っています。妻への教えです。「妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。(v18)」「従う」との言葉の原意は「下に身を置く」です。但し、当時のコロサイ社会のように、妻を物のように見、妻の人格が無視され、夫が横暴に振る舞うことを許しておりません。神の創造の秩序においての教えです。神は、秩序の神であられ、家庭において、夫は妻のかしらです。夫の家庭におけるリーダーシップを述べます。また、秩序の故に従うだけではなく、夫の献身的な愛への応答として夫の下に身を置きます。私たちが神様に従うのは、ただ秩序の故だけではなく、神様が私たちを愛して下さった愛への応答からです。同様に夫の愛への応答から妻は夫に従うのです。それが「主にある者にふさわしく(v18)」と言われます。キリスト者になる前も夫に仕えてきました。でも、それは世の習わしや夫の横暴さ故に仕方なく表面的であったかもしれない。でも、創造者なる神を信じ、キリストの愛を知った、であるから神の創造の秩序と夫の愛への応答から夫を心から敬い立てるようにと教えます。そして、これは妻が夫に喜んで従う歩みとなるよう、妻を愛する夫への教えでもあるのです。夫への教えです。「夫たちよ、妻を愛しなさい。妻に対して辛く当たってはいけません。(v19)」「愛する」は、「アガパオー」との言葉です。妻の幸いのために、いのちがけで愛することです。それはキリストが教会を愛し、教会のためにご自身を捨てられたように、自分の妻を愛するのです。「妻に対し辛く当たってはいけません。(v19)」妻の弱さが見えることがあるでしょう。でも、腹を立て、怒り変えようとするのではなく、妻の弱さを含めたありのままを愛するのです。見てみぬふりをするということではないでしょう。でも、妻の弱さを受け入れ担いつつ共に成長していくのです。

 

続いて親子の教えです。子への教えです。「子どもたちよ、すべてのことについて両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。(v20)」「従う」との言葉の原意は「聞き従う」ことです。「主に喜ばれることです。(v20)」神の創造の秩序と親の愛とその言葉に応じ、子は親の言う言葉に耳を傾けるのです。親への教えです。「子どもたちを苛立たせてはいけません。その子たちの意欲を失わないようにするためです。(v21)」子が一人格であることを尊重するのです。信頼し、失敗を赦す深さをもつのです。自分の感情でガミガミ言うのではないのです。

 

悔い、弱さ、闘いを覚えます。人は罪に毒され、家庭は最も罪の性質が表れるところです。でも、その家庭の罪の只中に十字架で死なれ復活された救い主イエス・キリストがともにおられます。罪の赦しを与え、新しく立ち上がらせて下さいます。主は過去の苦しみ、今の葛藤、明日への祈りをご自身のもとへ持ってくるよう招いておられます。キリストに拠り頼み家庭の歩みをなしていきましょう。痛みと弱さを抱え教会へ行き、礼拝で御言葉に聴き養われ祝福を受け、主にある交わりをなし、家庭に戻っていきましょう。主イエスが私たちの家庭の喜びと痛みとともにおられます。