聖書メッセージ『社会生活の教え』(コロサイ3:22~4:1)

聖書箇所 コロサイ3:22~4:1
3:22 奴隷たちよ、すべてのことについて地上の主人に従いなさい。人のご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れつつ、真心から従いなさい。
3:23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。
3:24 あなたがたは、主から報いとして御国を受け継ぐことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。
3:25 不正を行う者は、自分が行った不正を報いとして受け取ることになります。不公平な扱いはありません。
4:1 主人たちよ。あなたがたは、自分たちも天に主人を持つ者だと知っているのですから、奴隷に対して正義と公平を示しなさい。


説教要旨
本日は「奴隷」と「主人」の教えから「社会生活」について見て参ります。「奴隷たちよ、すべてのことについて地上の主人に従いなさい。(v22)」主人に聞き従う従順を教えています。「人のご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れつつ、真心から従いなさい。(v22)」主人の目がある時だけ仕え、そうでない時には手抜きをするような上辺だけの仕え方ではなく、主を畏れつつ忠実に主人に仕えるのです。「主の前にある」ということです。また、もう一つの面から教えています。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。…あなたがたは主キリストに仕えているのです。(v23~v24)」主人に仕える働きが、主イエスに仕えていることであるのです。自分が託されている務めを神の召しとして忠実になすことにおいて、主イエスに仕えているのです。主に仕えているので、主御自身から報いがあります。「あなたがたは、主から報いとして御国を受け継ぐことを知っています。(v24)」主なる神は真実なお方で、この地において忠実な働きに真実に報いて下さいます。でも、全てがそうとは限りません。報われないこともあります。でも主イエスはちゃんと知っていて下さり、天の御国で「良くやった。良い忠実な僕だ。」と語りかけて下さいます。聖書は、将来私たちが神の御前に立たせられる時、二つの審判があると告げます。一つは、キリストを信じ、神の前に罪赦されているかです。もう一つは、キリスト者の行ないに関してです。どれぐらい大きなことをしたのかということではありません。神から委ねられた務めへの「忠実さ」が問われ、主は報いて下さるのです。

 

奴隷への教えで終わりません。当時の社会では驚くべきことでしたが、主人に対する教えが続きます。「主人たちよ。あなたがたは、自分たちも天に主人を持つ者だと知っているのですから、奴隷に対して正義と公正を示しなさい。(4:1)」当時、主人は、奴隷を一人格とは考えず、横暴に扱いました。しかし、主人は自らが天の主人の奴隷であることを覚え、奴隷に対し「正義と公正(v1)」を示すのです。すなわち、一人格として敬い、働きに正しい報いを与え、平等であるようにと教えたのです。

 

以上、いずれも天の主人を持つ者としての教えでした。さて、いずれに対しても「知っている(v24、v1)」との言葉を述べます。コロサイ教会はこの教えを既に聞き分かっていたのでしょう。でも、実際の歩みにおいて、奴隷たちは働きにおいて主イエスに仕えており、主が天において確かに報いて下さることを見失い易かったのでしょう。主人たちは天に主人を持つ僕であることを見失い、横暴に奴隷を扱っていたのでしょう。パウロはコロサイ教会に知っていることに立ち返らせようとしたのです。私たちも主日礼拝式に招かれ、それぞれの立場で御言葉に聴きます。主イエスは私たちをご存知で、神の御心に立ち返らせようとされています。自分の務めにおいて報われない失意や怒りを覚える中で、主イエスは私たちに語られます。「主の前にあるのだ。その働きにおいて主イエスに仕えているのだ。そして主はちゃんと覚えておられる。地と天においてあなたの忠実さは覚えられている。」と。立場が上にある者として下にある者や弱さがある者に権力を振りかざそうとする中で、主は語られます。「あなたも神の僕である。神は、あなたを一人格として愛し尊重している。主イエスはあなたを愛し、あなたに仕えられ、十字架で死なれた。仕える者に。」と。

 

自らの働きが顧みられないことは、辛いことです。でも、主イエスはその労苦を知っておられ、地で天で報いて下さる。ですから、その務めに今一度忠実に仕えていきましょう。立ち場が上にある中で隣人に権力を振りかざし易い弱さを持っています。今一度、天の主人を持つ僕として隣人を敬い、感謝していきましょう。主イエスの十字架の愛と復活の御力に支えられ、委ねられている務めを主とともに担って参りましょう。