聖書メッセージ『祈り、祈られ』(コロサイ4:2~5)

聖書箇所 コロサイ4:2~5
4:2 たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい。
4:3 同時に、私たちのためにも祈ってください。神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように祈ってください。この奥義のために、私は牢につながれています。
4:4 また、私がこの奥義を、語るべき語り方で明らかに示すことができるように、祈ってください。

 

説教要旨

本日の箇所は、信仰生活の「原動力」を教えています。「祈り、祈られる歩み」です。「たゆみなく祈りなさい(v2)」は、祈りに専念することを表しています。祈りを常としていくのです。苦難を自分の内でただ問答するのではなく、私たちを愛し、御子イエス・キリストを十字架に架け赦し、ご自身の子どもとして下さった天の父なる神の前に持っていきます。「目を覚ましていなさい(v2)」主イエスは、十字架に架かられる直前のゲッセマネの園で仰せられました。「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。(マタイ26:41)」主イエスは、弟子たちが、直後のご自身の逮捕とこれからの働きにおいてご自身から離れる罪の誘いがあることをご存知であられました。誘惑において、どんなに心が燃え決意が強くても、肉体は弱いことをご存知であられました。そういう罪の弱さの中にあって、主イエスは「目を覚まして祈っていなさい」、神に絶えず目を向けていくことを教えられました。その目を覚まして祈っていくことにおいて大切なことは「感謝(v2)」です。心が神に絶えず向けられていることは窮屈なことではなく、神の御愛に感謝し、神ご自身を喜び、神の近くにある平安の歩みです。祈りを常とし、感謝をもって神に絶えず目を向けていく歩みこそが、心は燃えていても肉体は弱い私たちが神の御心に生きる原動力です。それは、祈りそのものに力があるのではなく、交わりの相手である神ご自身に、十字架で死なれ復活されたイエス・キリストご自身に力があるのです。

 

パウロは、続いてコロサイ教会に執り成しの祈りを求めました。「同時に、私たちのためにも祈ってください。(v3)」パウロは、コロサイ教会のために執り成していました。(1:9~11)そのパウロが、ここではコロサイ教会に執り成しを要請したのです。コロサイ教会は、自らのためだけではなく、パウロを覚え執り成す務めが与えられたのです。私たちは自分の魂の状況を覚えて自分のために祈ることは大切なことです。同時に人のために、この世界のために執り成していきます。苦しみや信仰の揺れを隣人から伺うことがあるでしょう。伺うことがなくても、そう見えたり、感じたりすることもあるでしょう。背後で祈っていくのです。また、同時に、これは私たちが執り成しを必要とする存在であることをも示しています。パウロは、執り成しの祈りに支えられ、強められる存在でした。祈ってもらわなくて、キリスト者の歩みをなしていくことができる人は一人もいません。

 

では、私たちは、「何を」自らのために祈り、人のために執り成し、人に祈ってもらうのでしょうか。日々の糧のために祈り、祈ってもらいます。またパウロがコロサイ教会のために「神を知る知識」と「歩み」を祈りましたが、神をいよいよ知り、主に喜ばれる歩みができるように祈り、祈ってもらいます。「忍耐(1:11)」神を待ち望み状況に耐え忍び、「寛容(1:11)」人に耐え忍び心と言葉が守られるように祈り、祈ってもらいます。また、パウロは「福音を伝える機会」と「正しく明らかに伝えることができるように」祈りを要請しました。(v3、v4)イエス様を証する機会が与えられ、その時に相応しい仕方で明らかに語ることができるようにと祈り、祈ってもらいます。私たちは、現実の歩みにおいて福音を直接語る機会は多くはないでしょう。でも、祈っていく中で、主は機会を用意下さり、語るべき言葉を用意下さいます。また、牧師の御言葉の取り次ぎのために祈っていただきたいのです。福音を正しく明らかに語ることができるようにお祈りください。説教は牧師の務めですが、単に牧師独りの業ではなく、教会の業です。

 

祈りは、決して地に落ちてはいません。天の父なる神は祈りを聞かれ、ご自身の御業をなして下さいます。祈ることに専念して参りたい。祈りの生活を回復して参りたい。祈り、祈られることは、私たちの歩みの力、証の力です。祈り、祈られる祝福の内を歩んで参りましょう。