聖書箇所 マルコ10:13~27
10:13 さて、イエスに触れていただこうと、人々が子どもたちを連れて来た。ところが弟子たちは彼らを叱った。
10:14 イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。
10:15 まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」
10:16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。
10:17 イエスが道に出て行かれると、一人の人が駆け寄り、御前にひざまずいて尋ねた。「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」
10:18 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。
10:19 戒めはあなたも知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え。』」
10:20 その人はイエスに言った。「先生。私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」
10:21 イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」
10:22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。
10:23 イエスは、周囲を見回して、弟子たちに言われた。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。」
10:24 弟子たちはイエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて彼らに言われた。「子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。
10:25 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」
10:26 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」
10:27 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」
説教要旨(歓迎礼拝)
主イエスの祝福を求め、人々が子どもたちを連れて来ました。弟子たちは、叱りました。当時、子どもは無力故に無価値との考えがあったからです。すると主イエスは、それをご覧になられ、憤られ、弟子たちに神の国は子どもたちのような者たちのものであり、子どものように神の国を受け入れるのでなければ入ることができないと仰せられました。(v14、v15) 「神の国」とは、救い、永遠のいのちのことです。創造主なる神との関係が回復し、神との交わりの中に生きることです。主イエスは、この時エルサレムに向かわれていました。神から離れ、罪の中にある私たちを愛し、私たちの罪の身代わりに十字架に架かり、神に裁かれ、死なれ、神に立ち返る道をご用意下さるためでした。子どもは親の保護なくては生きられない者で、親の愛に拠り頼み歩んでおります。同様に、神の国、救いは、自分の無力さ(弱さ、罪)を認め、主イエスの祝福に拠り頼む者のものです。神に背を向け、自分の知恵と力に拠り頼み歩んで来たことが的外れの生き方であったことを認め、向きを変え、自分に拠らず、イエス・キリストに拠り頼む者に与えられるのです。
「子どものような者」とは反対の「富める人」が続いて出てきます。主イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、ひざまずいて尋ねました。「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。(v17)」彼は、恐らく魂に深い渇きのようなものを覚えていたのでしょう。平安がなかったのでしょう。主イエスは、その彼に向き合われます。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。(v18)」これは、後に彼は律法を守り、「良い」ことを行っていると述べますが、唯一の義であられる神の前に人は善人、義人として立ち得ることができるのかとの問いかけです。そう述べた上で、主イエスは「何をしたら(v17)」という彼の土俵に立って律法の戒めを語られました。彼は、少年の頃から律法の戒めをすべてを守ってきたと答えました。主イエスは、彼を見つめ、慈しんで言われました。「あなたに欠けていることが一つあります。(v21)」一つの欠けとは、結論的なことを申し上げますが、目の前のイエス・キリストに属していないことでした。では彼は何に属していたのか。富でした。「帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。(v21)」永遠のいのちを得るためには、持ち物を売り払い貧しい人たちに施すことが条件というのでは決してありません。「何をしたら救われるか(v17)」と行ないによる救いを考えていた彼に、富への執着を示し、律法を守れない者であることを示されたのです。永遠のいのちを得るために罪を示し、罪の解決は自分の内にないことを示されたのです。そして招かれました。「そのうえで、わたしに従って来なさい。(v21)」子どものように、主イエスの祝福を拠り頼むことを招かれたのです。しかし、青年は、その場を去りました。(v22)
主イエスは弟子たちに富を持つ者が神の国に入る難しさを仰せられました。(v23~v25)それは、富を持つ者は、富を誇り、自分を拠り頼み、自分の弱さや無力さに気づき難いからでしょう。弟子たちは、驚き、「それでは、だれが救われることができるでしょう。(v26)」と絶望します。当時、金持ちこそ神の祝福を受けた者であり、永遠のいのちを得ると考えられていたからです。でも、その絶望こそ救いへの道です。「イエスは彼らをじっと見て言われた。『それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。』(v27)」救いは、人にはできないのです。でも、その絶望の横には、イエス・キリストの十字架が立っています。救いは、キリストの十字架の犠牲による神の恵みです。イエス・キリストに拠り頼む者を、神は必ず救い、神とともに生きる新しいいのちを与えて下さいます。「神にはどんなこともできるのです。(v27)」