聖書箇所 コロサイ4:15~18
4:15 どうか、ラオディキアの兄弟たちに、またニンパと彼女の家にある教会に、よろしく伝えてください。
4:16 この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキア人の教会でも読まれるようにしてください。あなたがたも、ラオディキアから回って来る手紙を読んでください。
4:17 アルキポに、「主にあって受けた務めを、注意してよく果たすように」と言ってください。
4:18 私パウロが自分の手であいさつを記します。私が牢につながれていることを覚えていてください。どうか、恵みがあなたがたとともにありますように。
説教要旨
コロサイ書の最後となります。「どうか、ラオディキアの兄弟たちに、またニンパと彼女の家にある教会に、よろしく伝えてください。(v15)」「ラオディキア(v15)」は、コロサイから約16㎞離れた町です。「ニンパと彼女の家にある教会(v15)」ラオディキア教会には、ニンパという女性の家が開放され、そこで一つの交わりがあったのでしょう。「教会」というと「教会堂」をイメージします。でも、初代の教会は、教会堂を持っていませんでした。家が開放され、そこに信仰者が集まり、御言葉に聴き、交わりをし、聖餐の恵みに与り、祈りをしていました。それらの家の教会が一つに集まる時は、大きな建物がありませんので、外で集まっていたようです。また、ここから伝わってくることは、コロサイ教会とラオディキア教会には交わりがあったことです。神は、それぞれの地域に教会を建てられています。でも、一教会が孤立して建てられているのではなく、教会と教会が励まし合いながらともに建てられ、神の国が地に広げられていくのです。
「この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキア人の教会でも読まれるようにしてください。あなたがたも、ラオディキアから回って来る手紙を読んでください。(v16)」コロサイ教会もラオディキア教会も使徒パウロの手紙をともに読みました。神の言葉である聖書に聴き養われていくことがどの時代どの地域においても教会の土台です。主日に集められともに御言葉に聴き、日毎に静思の時間を持ち御言葉に聴きます。これと関連し17節があるでしょう。「アルキポに、「主にあって受けた務めを、注意してよく果たすように」と言ってください。(v17)」「アルキポ(v17)」はコロサイ教会の牧会者エパフラスが不在の間に代わりに立てられた人物だったでしょう。牧会者として立てたのは「主(v17)」であることを確認し、御言葉を誤りなく説き明かすことを忍耐強く全うするようアルキポを励ましました。牧師は御言葉を取り次ぐ務めを忍耐強くなし、教会は御言葉にともに聴いていく。御言葉が正しく語られ正しく聴かれていくところに神の教会は建てられ、私たち一人ひとりは整えられていくのです。
パウロは目が悪く代筆してもらっていたようですが、最後の部分は自分の手で挨拶を記しました。(v18)「私が牢につながれていることを覚えていてください。(v18)」これは「私を忘れずに祈ってほしい」との思いも込められていたでしょう。でも、パウロが自分たちの様子を知らせるのはコロサイ教会が「心に励ましを受けるため(v8)」であったことを覚える時、牢に入れられても力と希望に溢れさせているイエス・キリストの恵みを証しする言葉だったでしょう。だからこそ「どうか、恵みがあなたがたとともにありますように。(v18)」と祈っているのです。手紙の最初でも(1:2)最後でも(v18)「恵み」を祈りました。主イエス・キリストは、私たちを愛し、身代わりに十字架で死なれ、死の中から復活され、ともにおられる勝利の主です。苦難や負うべき務めの中で弱さ、疲れ、失意を覚えます。でも、主イエスの恵みは、その私たちを慰め、平安を、望みを、務めを忍耐強く果たしていく力を与えて下さいます。また、ここでパウロは、コロサイ教会やラオディキア教会を覚えていますが、私たちは自分が苦しみや忙しさの中に置かれるとどうしても自分のことだけになっていきます。それはある意味で当然なのですが、でも、主イエスの恵みは、そのような私たちを隣人を顧み隣人の立場に立たせるゆとりを与えて下さいます。
この勝利の主イエス・キリストの恵みに沈潜したいのです。主イエスは、今日、御言葉を通し、御自身の豊かな恵みをもって臨み、強めて下さいます。今、重荷を主の前に下ろし、自分の思いを主の前に注ぎ出し祈り、静まって主イエスの恵みに浸り満たされ、神の平安と喜びの内を歩む者、忍耐強く務めを全うする者、隣人の立場に立つ者として新たに歩み出させていただきましょう。ただ「主の恵み」によってです。