聖書メッセージ『まことの光が世に』(ヨハネ1:9~13)

聖書箇所 ヨハネ1:9~13
1:9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。
1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
1:11 この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

 

説教要旨(待降節第二礼拝)
待降節第二礼拝を迎えました。歓迎礼拝でもあります。二千年前、すべての人を照らすまことの光が世に来られました。(v9)「世(v9)」とは、神が造られたこの世界を指しますが、「闇(v5)」とあったように、神に背を向け敵対し、罪の闇に支配されている世界、私たち一人ひとりを指しています。人は互いに愛し合い、喜びと平安の中を歩むことができず、怒り、憎しみ、恐れの中にいます。その暗闇は私に留まらず、私の周りにも覆っていきます。いいえ、周りだけではなく後の世代、子へ、孫へと覆っていきます。

 

そのような暗闇に覆われている私たちに、まことの光であるイエス・キリストが来られ照らして下さったのです。それがクリスマスの出来事です。主イエスは、まことの光であられます。人は罪の暗闇を様々な光で照らそうとします。自分の力で暗闇を照らそうとします。でも、本当に私たちは自分を治めることができない者ではないでしょうか。また、人の愛や物質的なもので暗闇を照らそうします。しかし、主イエスは「この水を飲む人はみな、また渇きます(4:13)」と仰せられましたが、人の愛や物質的なものは確かに一時的には私たちを潤すのですが、真に満たすことはないのです。それらは虚構の光です。しかし、主イエスはまことの光です。二千年前、主イエスは、私たちの罪の身代わりに神の裁きを受ける償いとなられるために来られ、神との交わりの回復を私に、あなたにご用意下さいました。「すべての人を(v9)」とあります。人はそれぞれ異なります。生まれも、育ちも、性別も、年齢も、人生で起きる喜びも苦難も全く違います。それぞれの悩みがあります。この福音書でも、地位を得、人々から尊敬を得、男性で、老人ニコデモが登場し、その一方で彼とは正反対のような不道徳なサマリヤの女性も登場します。主イエスは、そういうすべての人のために十字架で死なれ、復活され、和解の道を用意し、それに基づいた光でそれぞれの暗やみを照らして下さるのです。

 

この世は、そのまことの光イエス・キリストを受け入れませんでした。(v10、v11)しかし、この世の内に受け入れた者があったのです。「信じた(v12)」は、神に対する背きの罪を悲しみ、身代わりに十字架に架かって下さったイエス・キリストの中に身を委ねることです。自分の人生にイエスを付け加えるというのではなく、主イエスを幹、自らを枝とするのです。(15:5)その時に、神から離れ魂が死んでいる状態から神の子どもとして新しく生まれるのです。「新生」です。それは私たちの業ではなく、神の業です。(v13)人間の通常の出生の仕方を三回否定する言葉で、次の言葉を強調しています。「ただ、神によって生まれたのである(v13)」主イエスを信じた人々を、神ご自身が神の子どもと新しく生まれさせ、神の子どもとして神の愛の光の中で成長させて下さるのです。キリスト者になっても罪の闇が覆うことがあります。それは罪に支配されるということではありません。キリスト者は悔い改め、イエス・キリストを信じ、聖霊により確かに罪の支配から解放されたのです。でも、罪の性質は残っており、罪が覆うことがあります。人の一つの言葉や起こった試練により闇が心を覆うのです。でも、その時に、まことの光、イエス・キリストを見上げるのです。覆っている闇をそのままイエス・キリストのもとに下ろすのです。その時に闇の中に留まることなく、光の中を歩み直すことができるのです。

 

背負ってきた罪の暗闇、そして今罪の暗闇があります。イエス・キリストは、すべての人を照らす真の光です。待降節、このお方を自らの救い主としてお迎えし、神によって新しく生まれ、神とともに歩むいのちの歩みを始めていただきたいのです。キリスト者は新しく生まれた者として、闇が入り覆われる時、それに敏感になり、そのままにしないで、まことの光主イエスを見上げ、主にそのままを祈り、光の中を歩み直していきましょう。