聖書メッセージ『主は目を留め』(創世記4:1~5前半)

聖書箇所 創世記4:1~5前半

4:1 人は、その妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「私は、主によって一人の男子を得た」と言った。

4:2 彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは大地を耕す者となった。

4:3 しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを主へのささげ物として持って来た。

4:4 アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。主はアベルとそのささげ物に目を留められた。

4:5 しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。

 

説教要旨

エデンの園を追放された人間。そこにはただ悲しみや絶望の歩みのみだったのでしょうか。神の裁きの下にありましたが、なお神の憐れみがあり、夫婦の関係は罪の中にも支えられ、男子が与えられました。(v1)「主によって」とエバは神の憐れみを讃美せずにはおられませんでした。神の慈しみは一人で終わらず弟アベルを産みました。(v2)しかしこの時には「主によって」とありません。もしかしたら自分たちによってとの面が少なからず出ていたのかもしれません。いずれにせよ神はご自身に背いたアダムとエバに憐れみにより賜物として子たちを与えられました。労働も同様でした。「アベルは羊を飼う者となり、カインは大地を耕す者となった。(v2)」神の裁きにより労働の苦しみがあったでしょう。でも、それぞれ異なった働きをなし、喜び、感謝がありました。人は神に背き、神に裁かれ、生むことにおいても、地を従えることにおいても苦しみが伴うようになりましたが、その裁きの中にも神の深い憐れみがありました。

 

「しばらく時が過ぎて(v3)」とあります。カインとアベルは、神にささげ物を捧げました。(v3、v4)ささげ物は、神への収穫感謝でした。自発的なものでした。神の慈しみを獲得するためではなく、神の慈しみへの感謝と献身のしるしでした。「主はアベルとそのささげ物に目を留められた。しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。(v4、v5)」何故でしょうか?二つの解釈があります。第一は「ささげ物の種類の問題」、第二は「ささげる人の問題」です。第一は、神がアベルのささげ物に目を留められたのは羊を捧げたためとの解釈です。神との交わりのためには罪の赦しが必要であり、動物のいけにえの方が相応しかったとの考えです。しかし、文脈から考えると、このささげ物は、罪の赦しのためのささげ物ではなく、収穫感謝のささげ物です。また、ここで「ささげ物(v3、v4、v5)」との言葉は、「ミンハ」という言葉が使われ、モーセ時代、「ミンハ」は「穀物のささげもの」となっています。(レビ記2章他)ですから、種類ということで言うならば、カインの方が合っていたとも考えられます。ですから、これは「ささげ物の種類の問題」ではなかったでしょう。第二に、ささげる人の問題です。「アベルとそのささげ物」「カインとそのささげ物」といずれも人の名がささげ物の前に出ています。

 

主がまず目を留められたのは、ささげ物ではなく、人でした。アベルの感謝と献身の心を喜ばれたのです。それは捧げ方に表われていたでしょう。アベルは、初子の中から、肥えたものをと選んだのです。神への心を使っています。(v3、v4)神が私たちに願っておられることは、神への愛であり、神への従順です。(ミカ6:6~8参照)神への心は、奉仕やささげ物に表れます。どんなに立派でたくさんの奉仕や献金でも、神への感謝と献身がないならば、そして感謝から来る痛み(犠牲)がないならば、神はそれを喜ばれません。でも、どんなに貧しく小さな奉仕や献金でも、神への感謝と献身があり、感謝から来る痛み(犠牲)があるならば、神はそれをお喜び下さいます。(マルコ12:41~44参照)その歩みに神は目を留め、神の祝福をもって応えて下さいます。但し、神の祝福は、この世が求める商売繁盛、無病息災との「私の幸福」とは異なります。アベルは、カインに殺され、死にました。この世的に見るならば、何の祝福もないのです。でも、死を通し、短い人生を通し、神への従順を証しし、神の栄光が現わされたのです。神の祝福とは、私の幸福が第一ではなく、神の素晴らしさが現わされることです。

 

夫婦の歩み、子育て、務め、いずれも多くの心遣いがあります。複雑な面があります。でも、土台は素朴です。神の愛に応じ、神に信頼し、へりくだって神とともに歩むことです。そのような歩みに、神は、神の素晴らしさが現わされる祝福を注いで下さいます。神の栄光が現わされる人生こそ、本当の意味で私たちにとって幸福な人生です。