聖書メッセージ『主はカインに』(創世記4:5後半~16)

 

聖書箇所 創世記4:5後半~16

4:5それでカインは激しく怒り、顔を伏せた。

4:6 主はカインに言われた。「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。

4:7 もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」

4:8 カインは弟アベルを誘い出した。二人が野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかって殺した。

4:9 主はカインに言われた。「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」カインは言った。「私は知りません。私は弟の番人なのでしょうか。」

4:10 主は言われた。「いったい、あなたは何ということをしたのか。声がする。あなたの弟の血が、その大地からわたしに向かって叫んでいる。

4:11 今や、あなたはのろわれている。そして、口を開けてあなたの手から弟の血を受けた大地から、あなたは追い出される。

4:12 あなたが耕しても、大地はもはや、あなたのために作物を生じさせない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となる。」

4:13 カインは主に言った。「私の咎は大きすぎて、負いきれません。

4:14 あなたが、今日、私を大地の面から追い出されたので、私はあなたの御顔を避けて隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人となります。私を見つけた人は、だれでも私を殺すでしょう。」

4:15 主は彼に言われた。「それゆえ、わたしは言う。だれであれ、カインを殺す者は七倍の復讐を受ける。」主は、彼を見つけた人が、だれも彼を打ち殺すことのないように、カインに一つのしるしをつけられた。

4:16 カインは主の前から出て行って、エデンの東、ノデの地に住んだ。

 

説教要旨

都内で新型コロナウイルスの感染者が急増し、隣市でも感染者が出たことで心騒ぎ、主日の御言葉もそれに直接応じたものに換えた方が良いのではと揺れ動きました。でも、全ての状況をご存知である主がお語りになろうとされていることがあるとの思いへ導かれ、予定通り創世記4章の御言葉に聴きます。兄カインは自らのささげ物に神が目を留められなかった時、「激しく怒り、顔を伏せ(v5)」ました。そのようなカインに主はここから語り続けられていきます。(v6、v9、v15)神は怒るカインにご自身に顔を上げ立ち返るよう、そうしなければ罪に支配されると警告しました。

 

しかし、カインは神の言葉を退け、自分の怒りの感情のままに弟アベルを誘い出し野で殺害しました。神は全てをご存知であったにも関わらず、アダムの時と同様(3:9)、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか(v9)」と尋ねました。カインが自分で罪を告白し悔い改めることへと導こうとされたのです。しかしカインは「私は知りません。…(v9)」と偽りました。神を侮ったのです。神の全知を否定したのです。遂に神はカインに裁きを告げました。あなたはのろわれ、大地が作物を生じさせず彷徨い歩くことになると。(v10~v11)しかし、神は命を奪いませんでした。

 

カインは「私の咎は大きすぎて、負いきれません(v13)」と述べます。一見神に立ち返ったようです。しかし彼が気にしていたのは「罰」だけでした。神の罰をただ免れようとした、いいえ神の罰が不満でした。悔い改めの響きが聞こえません。苦しみは過ぎ去ることを求めますが、神ご自身には立ち返らないのです。しかし、こんなカインにさえ神は命を保証されました。(v15)さすらいの旅で神に悔い改める時を備えるためだったでしょう。しかし、カインは「主の前から(v16)」出て行きました。死を免れ、ほくそ笑んでいるようです。神はさすらい人となると言ったが俺は地に住んだと誇り神に挑戦しているようです。ご自身の前から出て行ったカインに神の語りかけはありません。

 

人間の罪が深くなっています。しかし、その人間を追い語り続ける神の憐れみの深さを見ます。神は私たち人間の身代わりに御子を十字架で裁かれ、救いの道を開かれました。どんなに人間が神から背を向け離れても、キリストの十字架により神が用意された救いの道は変わることなく備えられています。神の側で救いの道を閉ざされることはありません。しかし、聖霊の働きの中で神に立ち返るよう促されても拒み続ける者を、神は救うことはできません。でも、キリストの十字架の救いに拠り頼む者は、たとい大きな失敗であったとしても罪赦され、神の救いの祝福に与ることができるのです。神は、私たち人間に悔い改めを待っておられるのです。

 

では、キリスト者は、悔い改めとは関係ないのでしょうか。そうではありません。聖霊が私たちの内に住み御言葉を通し神の御心に生きるよう促しています。それでも罪の失敗をなしてしまうことがあります。その時に決して神の全知と聖さを減じてはなりません。罪を神の前に悲しまなければなりません。罪の故に苦しみを通らなければならないこともあるでしょう。しかし、その苦しみの中にも主の憐れみはあります。その憐れみによりすがっていくのです。神は同じような失敗であっても御子の十字架の故に赦して下さいます。何度でもです。

 

そのようにして悔い改める者をゆっくりと造り変えて下さいます。すべてのことを働かせて益として下さいます。主の前を出て行ってはならないのです。自分で情けないと思いながら、でも「あなたしかいないのです」と留まっていくのです。新型コロナウイルスのことでも覚えたいのです。神を見上げずに不安となり、苛立ちがあります。神の全知全能への疑りが生じます。カインはただ苦しみが取り除かれることを願いました。私たちは終息を神に切に祈りましょう。でも、神の御心は、苦しみの中でへりくだって神とともに歩むことです。どんなに信仰が揺れ動くとも、主の前に留まっていたいと願います。