聖書メッセージ『キリストも苦しみを』(Ⅰペテロ3:18)

聖書箇所 Ⅰペテロ3:18

3:18 キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。

 

説教要旨

棕櫚の主日を迎えました。ペテロの手紙の御言葉に聴いていきます。この手紙は、イエスの十二弟子ペテロがキリスト者に宛てて記したものです。紀元64年夏にローマの大火があり、それをきっかけにローマ皇帝ネロのキリスト者への迫害が始まっていきますが、その前後に記されました。教会は迫害に脅かされつつあったか、迫害の中にありました。そのような苦しみの状況にあって、ペテロはキリスト者に信仰故の苦しみがあり、しかしその苦しみを経て確かな希望があることを告げました。まさにイエス・キリストご自身がその道を通られたことを示したのです。キリストの十字架は、私たちを「神に導くためでした(v18)」私たち人間は神に造られ愛されているにも関わらず、その神に背を向け離れ神との交わりを失っております。神は聖なる義なるお方で、罪を嫌われ正しく怒り、人間は神の前に立ち得ないのです。しかし、キリストは、罪深き私たちを愛し、身代わりに苦しみを受け、救いの御業を完了して下さいました。キリストの十字架の故に、私たちは罪赦され、神との交わりが与えられるのです。

 

ペテロは、この正しい者、イエス・キリストの十字架の苦しみを、迫害の苦しみを受けているキリスト者に伝えました。「キリストも(v18)」と述べております。過ち故の苦しみではありません。神の御心に生き、その道を歩む苦しみです。イエス・キリストのみを「主」として従い、信仰を告白していく苦しみがありました。(v13~v17)自分に悪をなしてくることに対し忍耐し祝福する苦しみがありました。(2:18~3:12)そして神の御心に生きようとする時に戦いを挑む肉の欲がありました。(2:11)私たちは、新型コロナウイルスそのもののための恐れや緊張があります。それと同時に、この苦難の中で神への信頼が揺れ動きます。自分の内や周りの声として、「神よ、なぜ?」と神の全知全能への信頼が揺れ動かされます。この世の苦しみとは質が異なる、信仰者の苦難、魂の闘いがあります。その中で主イエスが父なる神に従い、私たちを愛し、十字架の苦しみを受けられたことを覚えるのです。さらには「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、模範を残された(2:21)」「模範」との言葉は、習字などで先生が薄く先に書きその上になぞり書きをさせることを意味します。イエス・キリストご自身が私たちの先に苦しみを通られており、私たちの信仰の闘いを分かっていて下さり、ともにいて下さることを覚えていくのです。

 

ペテロは、信仰故の苦しみがあることを示しただけではなく、苦しみを経ての希望を告げました。「霊においては生かされて(v18)」 「イエス・キリストは天に上り、神の右におられます(v22)」主イエスは、父なる神の御心に従い切られ十字架で死なれました。神はその主イエスを死者の中から復活させました。イエス・キリストは、十字架で死なれましたが、罪と死に勝利され、復活され、天に上られ、今父なる神の右におられます。神は、闘いの中にある私たちをも地上での苦難を経て天の御国の祝福に与らせて下さいます。(5:10~11)これは天の御国のことであるのですが、同時に今の地上での歩みにおいても、苦しみを経て神の栄光を崇める祝福に与らせて下さるのです。「神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。(5:6)」その私たちに必要なことは何でしょうか。神に自らの魂を、思い煩いを委ねることです。(4:19)(5:7)

 

棕櫚の主日、罪なき正しいお方、イエス・キリストが私たちを愛し十字架の苦しみを受けられたことを覚え、主に従う苦しみが、隣人を愛する闘いがあることを確認しましょう。その信仰の闘いを主イエスは先立って歩まれ、ともにおられることを覚えましょう。そして、十字架の苦しみで決して終わらず、復活がある、ちょうど良い時に高く上げて下さる神の栄光の御業があることを覚え、自らの魂を、思い煩いを神に委ねましょう。