聖書メッセージ『御霊に従って歩む』(ローマ7:24~8:4)

聖書

7:24 私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

7:25 私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。8:1 こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

8:2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。

8:3 肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。

8:4 それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。

 

説教要旨

本日は聖霊降臨記念日、ペンテコステ礼拝です。聖霊の恵みの御業を覚えましょう。ここでこの手紙を記したパウロは自分を嘆いています。「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(v24)」この嘆きはパウロがキリスト者になる前の自分の姿を思い起こして記しているのではなく、キリスト者パウロの今の嘆きです。それは自分がしたいと願うことができず、自分がしたくないことを行ってしまい、自分の内に悪が存在する「原理(法則)(v21)」を見いだすためでした。神を愛し、隣人を愛する神の御心を示す律法は良いものであるが、その神の律法を守ろうとすればするほど守れない自分を見ました。私たちもイエス・キリストを信じ、神を愛し、隣人を愛し仕えていきます。御言葉を通しそれが神の御心であることは分かっています。しかし、そうできない自分を見、パウロと同様「私は本当にみじめな人間です(7:24)」と嘆くのではないでしょうか。しかし、その嘆き、窮乏は、主を信じ新しくされていないのではなく、新しくされている者の現われです。神は、私たちが“自分では”神の律法に生きられないことを繰り返す中で、本当の意味で自分の無力さを教えようとされるのです。

 

パウロは、自らを深く嘆きますが、絶望で終わっていません。「私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。(v25)」なぜ主イエス・キリストを通し神に感謝しているのかを8章で告げます。「救いの内容(v1、v2)」「救いの根拠(v3)」「救いの目的(v4)」を示しています。イエス・キリストを信じた者は罪に定められることはないのです。(v1)「有罪判決の取り消し(義認)」だけではなく、「罪の支配から解放」されたのです。それはイエス・キリストを信じ、いのちの御霊が私たちの内に住み、罪の力に支配されていた私たちを解放して下さったからです。(v2)この救いの根拠は御子イエス・キリストにおける神の十字架の御業にあります。(v3)律法は私たちに神の御心に生きるよう命じますが、その歩みを生み出すには無力でした。なぜなら律法が働きかける私たちそのものが「肉によって弱くなっている」「原罪がある」ためです。罪の故に律法には私たちにできなかったことを、神は私たちにして下さいました。神はご自身の御子を私たちと同じように肉体をもつ者として遣わされ、私たちの罪を御子に背負わせ、十字架でその罪を断罪されたのです。罪の支配はイエス・キリストの死によって完全に打ち負かされたのです。その目的は私たちが神の御心に従って生きるためでした。(v4)私たちは、御子イエス・キリストの十字架の死により罪の支配から解放されました。しかし、依然罪の力が残っております。自分の力や決意では、神の律法を守ることができない「みじめな人間(v24)」です。しかし、自分では律法を守れないみじめ人間である私たちが、私たちの内に住まわれた聖霊によって神の律法に生きる者とされるのです。ですから、神に感謝であるのです。(v25)

 

イエス・キリストを信じるすべての人の内に、あなた・私の内に聖霊が住んでおられます。しかし、聖霊が私たちの内に住んでおられることと私たちの内に住む聖霊に従って歩むことは別のことです。(v4)「御霊に従って歩む(v4)」のです。第一は「私はほんとうに惨めな人間です(v24)」と自分の力や頑張りで神の御心に生きることはできないと認めることです。第二は聖霊の内住を自分の感覚や信仰の状態ではなく御言葉によって信じることです。第三は罪の力が依然ある中で神の御心に生きさせて下さる聖霊に自らを絶えず委ねることです。「頑張る」「愛する」と手の平を握りしめていることから手の平を聖霊なる神に広げるのです。

 

7章では数えきれないほど「私」という言葉が出てきますが、8章では「私」が消え「御霊」が出てきます。無力さを認め、聖霊に私を明け渡し、神の御心に従う「いのち」と「平安」の歩みへと導かれていきましょう。(v6)