聖書メッセージ『わたしは住む』(出エジプト25:1~22)

聖書箇所 出エジプト25:1~22

25:1 【主】はモーセに告げられた。

25:2 「わたしに奉納物を携えて来るように、イスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、すべて、進んで献げる心のある人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。

25:3 彼らから受け取る奉納物は次のものである。金、銀、青銅、

25:4 青、紫、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、

25:5 赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、

25:6 ともしび用の油、注ぎの油と、香り高い香のための香料、

25:7 エポデや胸当てにはめ込む、縞めのうや宝石である。

25:8 彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。

25:9 幕屋と幕屋のすべての備品は、わたしがあなたに示す型と全く同じように造らなければならない。

25:10 アカシヤ材の箱を作り、その長さを二キュビト半、幅を一キュビト半、高さを一キュビト半とする。

25:11 それに純金をかぶせる。その内側と外側にかぶせ、その周りに金の飾り縁を作る。

25:12 箱のために金の環を四つ鋳造し、その四隅の基部に取り付ける。一方の側に二つの環を、もう一方の側にもう二つの環を取り付ける。

25:13 また、アカシヤ材で棒を作り、それに金をかぶせる。

25:14 その箱を棒で担ぐために、その棒を箱の両側の環に通す。

25:15 その棒は箱の環に差し込んだままにする。外してはならない。

25:16 その箱に、わたしが与えるさとしの板を納める。

25:17 また、純金で『宥めの蓋』を作り、その長さを二キュビト半、幅を一キュビト半とする。

25:18 二つの金のケルビムを作る。槌で打って、『宥めの蓋』の両端に作る。

25:19 一つを一方の端に、もう一つを他方の端に作る。『宥めの蓋』の一部として、ケルビムをその両端に作る。

25:20 ケルビムは両翼を上の方に広げ、その翼で『宥めの蓋』をおおうようにする。互いに向かい合って、ケルビムの顔が『宥めの蓋』の方を向くようにする。

25:21 その『宥めの蓋』を箱の上に載せる。箱の中には、わたしが与えるさとしの板を納める。

25:22 わたしはそこであなたと会見し、イスラエルの子らに向けてあなたに与える命令を、その『宥めの蓋』の上から、あかしの箱の上の二つのケルビムの間から、ことごとくあなたに語る。

 

説教要旨

主は、契約を結ばれた後、民に自ら奉納物を携えて来るよう告げられました。(v2)奉納物は「聖所」を造るためのものでした。(v8)「幕屋(聖所)建設」を命じられたのです。幕屋は礼拝の中心の場でした。礼拝とは神と神の民の交わりです。神がイスラエルと契約を結ばれ最初に命じられたことは幕屋建設でした。神の民とせられたイスラエルは「礼拝の民」でした。幕屋建設の教えの最後の31章は安息日規定です。(出エジプト記31:12~18)神の民、教会は礼拝の民です。神の民が呼び集められるのは、安息日、主日礼拝です。礼拝は神の民の務めであり、特権です。

 

礼拝の土台は何でしょうか。「わたしは彼らのただ中に住む(v8)」と主のご臨在です。この約束は成就され、幕屋が完成した時に主の栄光が幕屋に満ちました。(40:34~35)主は私たちの日々の歩みとともにおられます。しかし、この主日礼拝に、主は特別にご臨在下さるのです。

 

では、主の臨在は、どのようになされるのでしょうか。「箱」を作るように命じました。(v10)箱は至聖所に置かれ、「神の臨在の象徴」でした。箱は、かつがれるようになっていました。(v12~v15)箱には、十戒、神の言葉が納められました。(v16)その箱に「宥めの蓋(v17)」を作るよう命じました。(v17)宥めの蓋の両端には神の臨在を守る天的存在である「ケルビム(v18)」を作るよう命じました。ケルビムは互いに向かい合い顔は宥めの蓋を向いていました。契約の箱が置かれた至聖所には大祭司だけが一年一度の「贖罪の日」にだけ、民の贖いのためにいけにえ血を携えて入り、宥めの蓋にふりかけ、贖罪がなされました。(レビ記16章)宥めの蓋は罪の贖いがなされる場であり、贖いがなされて、主が民に会われ、語られたのです。(v22)民は罪の故に聖なる神の前に立ち得ないのです。罪を持ったままでは聖なる神との交わりを持つことはできません。しかし、契約の箱には宥めの蓋があり、血がふりかけられることにより、罪の赦し(贖罪)がなされ、神は、そこで民に会われ、語られたのです。ケルビムが宥めの蓋を向いていたのは、贖いの血がふりかけられたかを確認するためでした。神の御子イエス・キリストが私たちの罪に対する神の御怒りを十字架で受け、血を流され、救いの道を開いて下さいました。主なる神は、キリストの十字架の血により御前に立つ私たちに会い、語られるのです。「会い、語られる」それが主の臨在です。ですから、礼拝の中心は「神の言葉の朗読」と「説教」です。私たちは天の御国に向けての旅路にあります。一週間、委ねられた務めがあり、試練があり、人と人との間に生き、重荷を抱え、渇きを覚え、御前に招かれます。主は御言葉において会い、語り、罪の痛みや失望や渇きの中にある私たちをかくまい引き上げて下さいます。(詩篇27:4~5)聖所は移動式でした。神の民の中心にはいつも聖所があり、イスラエルは聖所とともに約束の地カナンに向かう荒野の旅路を歩みました。私たちは礼拝の民であり、主日礼拝とともに天の御国に向かって歩んでいきます。先週と今週の状況は異なります。喜びの時も悲しみの時も、全てをご存知であられる主が礼拝式に招き、キリストの十字架の故に聖なる神の前に立ち得ない者を立たせ、御言葉を通し会い、語り、信仰に立たせ新たに遣わして下さるのです。

 

私たちのために主と交わる幕屋を張って下さったキリストは今日も生きておられます。大祭司として私たちのために執り成し祈っていて下さいます。主日毎に会堂でインターネットで礼拝の民として神の前に出、御言葉において主に豊かにお臨みいただき、力づけられ、天の御国に向かって歩んでいきましょう。そして、主が私たちに臨んで下さる中で、私たちは「進んで献げる心(v2)」、主日毎に自分自身を主に献げる、「わが父よ、…わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。(マタイ26:39)」と神と人に仕える献身を新たにして参りましょう。