聖書メッセージ『顔と顔を合わせて』(出エジプト記33:1~17)

聖書箇所 出エジプト記33:1~17

33:1 【主】はモーセに言われた。「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、ここから上って行って、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地に行け。

33:2 わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし、カナン人、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、

33:3 乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」

33:4 民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、 一人も飾り物を身に着ける者はいなかった。

33:5 【主】はモーセに次のように命じておられた。「イスラエルの子らに言え。『あなたがたは、うなじを固くする民だ。一時でも、あなたがたのただ中にあって上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。今、飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。』」

33:6 それでイスラエルの子らは、ホレブの山以後、自分の飾り物を外した。

33:7 さて、モーセはいつも天幕を取り、自分のためにこれを宿営の外の、宿営から離れたところに張り、そして、これを会見の天幕と呼んでいた。だれでも【主】に伺いを立てる者は、宿営の外にある会見の天幕に行くのを常としていた。

33:8 モーセがこの天幕に出て行くときは、民はみな立ち上がり、それぞれ自分の天幕の入り口に立って、モーセが天幕に入るまで彼を見守った。

33:9 モーセがその天幕に入ると、雲の柱が降りて来て、天幕の入り口に立った。こうして主はモーセと語られた。

33:10 雲の柱が天幕の入り口に立つのを見ると、民はみな立ち上がって、それぞれ自分の天幕の入り口で伏し拝んだ。

33:11 【主】は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた。モーセが宿営に帰るとき、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が天幕から離れないでいた。

33:12 さて、モーセは【主】に言った。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指して選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。

33:13 今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」

33:14 主は言われた。 「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。 」

33:15 モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。

33:16 私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」

33:17 【主】はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。」

 

説教要旨

神は偶像礼拝の恐るべき罪を犯したイスラエルを、モーセの執り成しにより、滅ぼすことはしないとされました。そして、モーセと民は約束の地カナンに行くとも告げられました。しかし、神ご自身は一緒に行かず、一人の使いを遣わすと臨在拒否を仰せられました。(v1~v3)

 

モーセは一緒に行かないと仰せられた神にv12から臨在を嘆願しますが、その前に半ば挿話のような形で民には一緒に行かないと言われた神がモーセには臨在され大変親しくされる様が記されています。(v7~v11)モーセは民の宿営から離れた所に天幕を張りました。「会見の天幕(v7)」と呼んでいました。神との会見、神と特別に交わりを持つ場でした。モーセがその天幕に入ると、雲の柱が降りて来ました。主の臨在があったのです。「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた。(v11)」主が近いのです。主が天幕でモーセと顔と顔とを合わせて語った内容がv12以降で示されています。モーセは「神は私に民を連れ上れと言われ、ご自身は一緒に行かず、御使いを遣わすと言われる。その御使いとは一体誰であるのか分からない」と語りました。(v12)さらに「あなたが私を名指しで召し出された。主は民を私に連れ上れと言われ私には臨在があるが民とは行かないと仰せられる。そこに矛盾があるのではないか。良く分からない。あなたの道を教えて下さい」と語りました。(v12~v13)その上でイスラエルを「モーセの民」と述べる神に「あなたの民であることを心に留めてください(v13)」と語りました。主はモーセに「わたしがあなたともに行きカナンにあなたを導き上る」と仰せられました。(v14)自分に対してはともにカナンに上るとの約束を得たモーセは、自分だけでなく、民に対する臨在の回復を迫りました。(v15、v16)主は民に対する臨在もモーセの故に回復すると約束されました。(v17)

 

主とモーセの語らいは、まさに人が自分の友と語るように顔と顔とを合わせてのものでした。(v11)主イエスとカナン人の女性のやり取りを覚えさせます。(マタイ15:21~28)主はモーセの肉薄する祈りを喜んでおられるようです。神は天地万物の創造者、聖なるお方「大いなる主」です。しかし、同時に神は本当に近しいお方、肉薄するような祈りを喜んで下さる「友なる主」です。モーセは特別なのではないかと思うかもしれません。しかし、ここではモーセのみの個人用の会見の天幕であり、宿営から離れていましたが、この後、民全体の会見の幕屋が宿営の真中に建てられようとされていたのです。そして、新約においてイエス・キリストの十字架の血潮によって神との親しい交わりが私たち一人ひとりに与えられているのです。主イエスは十字架に架かられる前夜、弟子たちを「友」と呼ばれました。(ヨハネ15:14~15)讃美312番「慈しみ深き、友なるイエス」です。私たちは創造者であられる「大いなる主」に祈るという厳粛な面を失ってはならないのですが、「友なる主」に「心の嘆きを包まず述べて」親しく話すことができるのです。32章・33章の一連の主とモーセの語らいは、モーセが主に訴えている面と、主がモーセには自分の苦しみや怒りを出している面があるとも言えるのではないでしょうか。それほどまでに主と親しい関係の中にモーセは、そして私たち一人ひとりは置かれるのです。

 

主は私たちを愛しておられます。友と呼んでおられます。信頼しておられます。主が私たちを友と見て下さっている幸いを覚えながら、友なる主に、自分のことを祈ることにおいても、また家族や隣人のことを祈ることにおいても、表面的な祈り、通り一遍の祈りではなく、ある時はただただ主の前に沈黙するような、ある時にはただただ「主よ、何故ですか」と注ぐような、ある時にはただただ「主よ、憐れんでください」とうなだれるような「顔と顔を合わせて」の祈りの歩みへと導かれていきましょう。主はそのような肉薄した祈りを待っておられ、聴き、御業をなして下さるのです。