聖書メッセージ『幕屋建設』(出エジプト記35:20~36:1)

 

聖書箇所 出エジプト記35:20~36:1

35:20 イスラエルの全会衆はモーセの前から立ち去った。

35:21 心を動かされた者、霊に促しを受けた者はみな、会見の天幕の仕事のため、そのあらゆる奉仕のため、また聖なる装束のために、【主】への奉納物を持って来た。

35:22 進んで献げる心のある者はみな、男も女も、飾り輪、耳輪、指輪、首飾り、すべての金の飾り物を持って来た。金の奉献物を【主】に献げる者はみな、そのようにした。

35:23 また、青、紫、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮を持っている者はみな、それを持って来た。

35:24 銀や青銅の奉納物を献げる者はみな、それを【主】への奉納物として持って来た。アカシヤ材を持っている者はみな、奉仕のあらゆる仕事のためにそれを持って来た。

35:25 また、心に知恵ある女もみな、自分の手で紡ぎ、その紡いだ青、紫、緋色の撚り糸、それに亜麻布を持って来た。

35:26 心を動かされ、知恵を用いたいと思った女たちはみな、やぎの毛を紡いだ。

35:27 部族の長たちは、エポデと胸当てにはめ込む、縞めのうや宝石を持って来た。

35:28 また、ともしび、注ぎの油のため、また香りの高い香のために、香料と油を持って来た。

35:29 イスラエルの子らは男も女もみな、【主】がモーセを通して行うように命じられたすべての仕事のために、心から進んで献げたのであり、それを進んで献げるものとして【主】に持って来た。

35:30 モーセはイスラエルの子らに言った。「見よ。【主】は、ユダ部族の、フルの子ウリの子ベツァルエルを名指して召し、

35:31 彼に、知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たされた。

35:32 それは、彼が金や銀や青銅の細工に意匠を凝らし、

35:33 はめ込みの宝石を彫刻し、木を彫刻し、意匠を凝らす仕事をするためである。

35:34 また、彼の心に人を教える力をお与えになった。彼と、ダン部族のアヒサマクの子オホリアブに、そのようにされた。

35:35 主は彼らをすぐれた知恵で満たされた。それは彼らが、あらゆる仕事と巧みな設計をなす者として、彫刻する者、設計する者、青、紫、緋色の撚り糸と亜麻布で刺繡する者、また機織りをする者の仕事を成し遂げるためである。

36:1 ベツァルエルとオホリアブ、および、聖所の奉仕のあらゆる仕事をする知恵と英知を【主】に授けられた、心に知恵ある者はみな、すべて【主】が命じられたとおりに仕事をしなければならない。」

 

説教要旨

35章からは、神が命じられていた「幕屋建設」が実行されたことが記されています。幕屋建設は、教会が「礼拝の民」と「宣教の民」として建て上げられていくことを表しています。教会が建て上げられ、神の国がこの世に建て上げられていく時に私たちの奉仕や捧げ物や働きが用いられます。奉仕や捧げ物、働きについて三つのことを教えられたく願います。

 

第一は、奉仕や捧げ物、持ち場での働きは、主の愛に「感謝」し、「主に」献げられるものです。イスラエルの民は、幕屋建設のために奉納物を携えて来るよう命じられ、持って来ました。(v21)「心を動かされた者(v21)」とは、「心を主に向けた者」ですが、エジプト脱出の主の御業、荒野の旅路での主の守り、ともに住んで下さる主の臨在の約束を受け、霊に促しを受けた者が奉納物を持って来ました。奉仕、捧げ物、持ち場での働きは、主の愛への感謝からのものです。また、「主への奉納物(v21)」でした。(v22、v24、v29参照)奉仕や捧げ物は教会のためになしているのではありません。持ち場での働きは単にその働きをなしているのではありません。目に見える事柄は、教会の活動をなし、目の前の働きをなしているのですが、原点は主に献げ、主に仕えているのです。

 

第二に、奉仕や捧げ物、持ち場での働きは、「進んで」「分に応じて」献げるものです。「進んで献げる心のある者はみな(v22)」(v29参照)「進んで」とは「喜んで」とも訳されます。奉仕や捧げ物、持ち場での働きは、嫌々ながらではなく、誰かに強制されてでもなく、喜んで自発的に献げられるものです。また、奉仕や捧げ物、持ち場での働きは、「分に応じて」献げられるものです。金の飾り、より糸、宝石等、各々「分に応じて」献げました。(v22~v28)教会はキリストのからだであり、私たち一人ひとりは各器官です。それぞれの分に応じて奉仕や捧げ物が献げられ教会が建て上げられます。持ち場でそれぞれのタラントが用いられ神の国が広げられます。奉仕や捧げ物や働きに優劣はなく、神の前にどれも尊い奉仕、捧げ物、働きです。主イエスは二レプタを献げたやもめの献金を喜ばれ、大金を献げた宗教指導者の献金を喜ばれませんでした。ここで、ユダヤの男性社会において、女性が尊く用いられたことが強調されています。(v25、v26)また、副棟梁にはイスラエル十二部族の最小部族のダン族出身のオホリアブが立てられました。主の教会は、弱い器官がなくてはならないものです。調和が保たれ、力や知識ではなく愛の内に建てられるためです。弱さを通し主の栄光が現わされます。主がご覧になられるのは、単に見える物ではなく、喜んで分に応じて献げる心です。

 

第三に、奉仕や持ち場での働きにおいて、主は私たちに聖霊を満たし、その働きをなす知恵や力を与えて下さいます。v30~36:1を見ますと、主は、ベツァルエルとオホリアブを、仕事をするために聖霊に満たし、知恵や力を与えられました。彼らは恐らく幕屋の用具を作る技術や能力を持っていたのでしょう。しかし、その技術や能力は、神の霊に満たされる必要がありました。技術や能力があることは尊いことですし、それらも神の賜物ですが、気をつけなければならないことは、自分が出て、神の働きの妨げになってしまうことがあるのです。一方、自分の弱さを認め、聖霊に拠り頼みながら働きをなす時に、主はその奉仕や働きをなす知恵や力を与え、私たちをお用い下さいます。(ヤコブ1:5)旧約時代は聖霊に満たされるのは限られた人に限られた時でしたが、今はイエス・キリストを信じる者のすべての内に聖霊が住まわれております。

 

主の愛に押し出され、喜びをもって、分に応じて教会での奉仕や捧げ物、持ち場での働きを主に献げていきましょう。その奉仕や働きに難しさや無力さを覚える時がありますが、聖霊に拠り頼み、力、知恵、そして愛をいただいて歩んでいきましょう。