聖書メッセージ『主は呼び』(レビ記1:1~9)

聖書箇所 レビ記1:1~9

1:1 【主】はモーセを呼び、会見の天幕から彼にこう告げられた。

1:2 「イスラエルの子らに告げよ。あなたがたの中でだれかが【主】にささげ物を献げるときは、家畜の中から、牛か羊をそのささげ物として献げなければならない。

1:3 そのささげ物が牛の全焼のささげ物である場合には、傷のない雄を献げなければならない。その人は自分が【主】の前に受け入れられるように、それを会見の天幕の入り口に連れて行き、

1:4 その全焼のささげ物の頭に手を置く。それがその人のための宥めとなり、彼は受け入れられる。

1:5 その若い牛は【主】の前で屠り、祭司であるアロンの子らがその血を携えて行って、会見の天幕の入り口にある祭壇の側面にその血を振りかける。

1:6 また、全焼のささげ物はその皮を剝ぎ、各部に切り分ける。

1:7 祭司であるアロンの子らは祭壇の上に火を置き、その火の上に薪を整える。

1:8 祭司であるアロンの子らは、その切り分けた各部と、頭と脂肪を祭壇の火の上の薪の上に整える。

1:9 内臓と足は水で洗う。祭司はこれらすべてを祭壇の上で焼いて煙にする。これは全焼のささげ物、【主】への食物のささげ物、芳ばしい香りである。

 

説教要旨

レビ記は、出エジプト記の続きです。神の前に立ち得ないイスラエルの民に神との交わり(礼拝)を可能にするささげ物の教えが神から告げられました。ささげ物は、野からの物ではなく、愛をもって育てた「家畜(v2)」から献げるよう命じました。v3~v17は、ささげ物の中の基本となる「全焼のささげ物」が言われています。全焼のささげ物は「主の前に受け入れられる(v3)」と礼拝を可能にするささげ物でした。それは「傷のない雄(v3)」でなければなりませんでした。献げる人は、ささげ物の頭に手を置きました。自分の罪がささげ物に転嫁し同一化し、そのささげ物が裁かれることにより、献げた人の罪に対する神の御怒りが宥められることを示しました。ささげ物は主の前で屠りました。(v5)家畜はもだえ苦しみ絶叫したことでしょう。献げた人は心つぶれる思いだったでしょう。祭司がその血を携え、祭壇の側面にふりかけました。血は命の象徴で、命が取り去られたことを示しました。屠られた家畜は解体されました。「内臓」と「足」は水で洗いました。(v9)「魂(心)」と「歩み」における罪の聖めを示しました。ささげ物は祭壇上で焼き尽くし煙とし、神はその煙をかがれ、御怒りが宥められ、その人は受け入れられました。罪が赦され、聖なる神との交わり(礼拝)が可能になったのです。

 

へブル書が告げているとおり、全焼のささげ物は、神の御子イエス・キリストの型でした。暫定的で完全なものではありませんでしたので、民は幾度もささげ物を献げなければなりませんでした。しかし、御子イエス・キリストは、完全な全焼のささげ物でした。罪のない神の御子イエス・キリストが全焼のささげ物として私たちの罪の身代わりに十字架でご自身を与え尽くし神の裁きを受け死んで下さったので、神は私たちの罪を赦し、神との交わりの道をお開き下さったのです。

 

全焼のささげ物を献げた民は三つのことを覚えさせられたでしょう。第一は、聖なる神と自分の罪の大きさです。最良の家畜を自分の代わりに自分の手で屠り、苦しく自分の罪の大きさを思わされたでしょう。私たちは、なかなか自分の罪が見えない者、見えても曖昧にしてしまう者、そして直ぐに自分を誇り人を裁いてしまう者です。しかし、聖なる神は魂と歩みにおけるいかなる罪をも嫌われ、私たちの罪は御子イエス・キリストが身代わりに裁かれなければならないほど深く大きなものです。第二は、その罪が赦された測り知れない神の恵みを覚えたでしょう。私たちの罪の弱さの横に御子イエス・キリストの十字架は変わることなく立っており、罪が赦され、神に受け入れられるのです。第三に、献身へと導かれたことでしょう。全焼のささげ物は、神との交わり(礼拝)を可能にするささげ物であるとともに、神に自分をお献げし神のものとして生きる「献身」をも表していました。「…神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(ローマ12:1)」私たちは、まさにその献身の歩みに葛藤や闘いを覚えます。神の御心ではなく自分の思いのまま歩もうとしたり、人に仕えることを失ったり、自分が引き裂かれ犠牲を払うことが耐えられません。でも、主イエスを覚えます。主イエスは魂と歩みにおいて罪に汚れた私たちを愛し、私たちの救いのために自らを与え尽くして下さいました。私たちは私たちを愛して下さった、愛して下さっている主イエスの献身に立ち返り、この礼拝でもう一度「あなたのものです」と神に自らを献げたいと願います。人の目には目立たない小さな献身かもしれません。実際に見える行動は直ぐには変わらず相応しくない歩みに打ちひしがれるかもしれません。しかし、神は、その小さな献身を、そのように歩もうとする姿勢を、そして砕かれた心をご覧になられ、蔑まれず、喜ばれ、真の祝福をもって私たちをお導き下さいます。「一粒の麦は…死ぬなら、豊かな実を結びます。(ヨハネ12:24)」