聖書メッセージ『主の戒めを守る』(レビ記18:1~6)

聖書箇所

18:1 【主】はモーセにこう告げられた。

18:2 「イスラエルの子らに告げよ。わたしはあなたがたの神、【主】である。

18:3 あなたがたは、自分たちが住んでいたエジプトの地の風習をまねてはならない。また、わたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地の風習をまねてはならない。彼らの掟に従って歩んではならない。

18:4 わたしの定めを行い、わたしの掟を守り、それらの中にあって歩まなければならない。わたしがあなたがたの神、【主】である。

18:5 あなたがたは、わたしの掟とわたしの定めを守りなさい。人がそれらを行うなら、それらによって生きる。わたしは【主】である。

18:6 だれも、自分の肉親の者に近づき、相手の裸をあらわにして交わってはならない。わたしは【主】である。

 

説教要旨

今日の御言葉は、レビ記後半の神の民の歩みを教える「序文」です。「…わたしはあなたがたの神、主である。(v1~v2)」「主」とは、ヤハウエとの言葉ですが、「民と契約を結ばれた慈しみ深き神」を表します。「わたしは、あなたがたを贖い、契約を結び、ともにいる神である。あなたがたは、わたしの民である」との宣言です。神は、イスラエルをエジプトの奴隷から贖い、一方的な恵みによりご自身の民とする契約を結ばれました。

 

では、神は、契約を結ばれたイスラエルの民にどのように歩むよう仰せられたのでしょうか。エジプトやカナンの風習に従って歩んではならないと告げました。(v3)クリスチャンは、この世の中に生きていますが、この世のものではありません。この世は、聖なる神を恐れることなく、自分の欲望に従って歩みます。そうした世の風習や考えに従ってキリスト者は歩みません。原理が異なるのです。では、私たちは、何を規範として歩むのでしょうか。神の言葉に聴き従って歩むのです。(v4~v5前半)特にこのレビ記18章では、「性」のことが教えられています。v6からv18では近親相姦を禁じ、v19からv23では様々な性の逸脱を禁じています。エジプトやカナンの地において性的腐敗があり、それが当然でした。しかし、神は、贖われたイスラエルの民に、それらの性的腐敗に従って歩むことなく、神の言葉に聴き従って歩むよう告げました。性の交わりは、夫婦の間のみで許された神の賜物であり、性的な罪は、二人の一体性を破壊します。(創世記2:24)結婚前の性的罪もありますが、聖書は、結婚の重さを告げています。ここでの禁止条項は、直接的には「肉体関係」の罪を告げていますが、主イエスは心の姦淫も罪としています。(マタイ5:28)世の中は、こんな教えは、とんでもないとします。しかし、神の言葉は、肉体の姦淫だけではなく、心の姦淫もはっきりと「罪」であると述べます。聖なる神は性的罪を忌み嫌われ、神の裁きが18章後半で言われています。私たちは、世の言葉、自分の内なる言葉に流されないで、体と心において、性的罪を離れ、神の言葉、夫婦の一体性の中に生きていきます。夫は自分の妻を愛し、妻は自分の夫を敬い歩んでいきます。(エペソ5章)

 

「…人がそれらを行うなら、それらによって生きる。(v5)」この世の風習に従い歩む、確かに一時的には、楽しさがあるかもしれない、高揚があるかもしれない、でも、その果ては、悲しみ、痛み、恐れ、渇き、滅びです。しかし、聖なる神を畏れ、この世と調子を合わせず、神の言葉に聴き従う歩みは、真の祝福の歩み、喜びの歩み、平安の歩みです。でも、私たちは、神の教えに従えない罪の弱さがあります。その時に、私たちは、世の言葉に合わせ、罪を「仕方ないこと」と肯定してはなりません。罪は罪です。聖なる神は、罪を忌み嫌われます。では、私たちは、ただ嘆き、絶望に伏せるしかないのでしょうか。「わたしは主である(v1、v4、v5、v6)」慈しみ深き神がおられます。私たちを愛し、私たちの罪の身代わりに十字架に架かり死なれ、罪を赦し、聖めて下さる救い主イエス・キリストがおられます。そして、助け主なる聖霊がおられます。主イエスは、38年間病気にかかった人が横になっているのを見、すでに長い間そうしていることを知り言われました。「良くなりたいか。(ヨハネ5:6)」自分の罪の弱さを覚え、長く深い痛みを抱え、良くなりたいとも思うことができないような状態、でも、心の奥深くには「良くなりたい」との思いがある、その私たちに主イエスは、聖霊は応え、主の言葉に聴き従う者として下さいます。

 

ですから、私たちは、罪の弱さを覚えた時に、世の言葉を聞き、罪を肯定したり、自分の本当の姿から目をそらしてしまうのではなく、神の言葉に聴き、自分の罪を悲しみ、でも、「わたしは主である」と仰せ下さる神を見上げ、聖霊の助けを求め、罪を離れ、神の言葉に聴き従い、神の祝福を受け、真の幸いな生活をなしていきましょう。