聖書メッセージ『聖なる者』(レビ記19:1~2)

聖書箇所 レビ記19:1~2

19:1 【主】はモーセにこう告げられた。

19:2 「イスラエルの全会衆に告げよ。あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、【主】であるわたしが聖だからである。

 

説教要旨

レビ記後半は「聖なる神の民の歩み」が記されています。19章は「生活全般」のことが取り上げられています。その中心聖句がv2です。「聖なる」とは「区別された」との意味です。主なる神はこの世と区別されたお方、即ちこの世のものではなく、この世のものの主、創造者・主権者であられ、この世の罪汚れから分離されています。イスラエルの民はその聖なる神と契約を結ばれ、神のものとされました。聖い神の民とされたならば、聖い神に基づいて聖い民とならなければならないのです。その聖い歩みがこの19章で語られています。v3~v8で神を畏れることが言われています。十戒の前半、神との関係における教えが展開されています。子は神を知るために神に立てられた自分の親を敬うこと(v3前半)、神との交わりのために安息日を聖別すること(v3後半)、神以外のものを神とし拠り頼み心を満たそうとしないこと(v4)、神との交わりの喜びを表す「交わりのいけにえ」を神に受け入れられるように献げ規定に従って食すること(v5~v8)を教えています。v9~v18は十戒の後半、隣人との関係における教えが展開されています。刈り入れをなす時には貧しい人や寄留者のために刈り尽くしてはならず残しておくよう教えています。(v9~v10)v11~v12は十戒の盗んではならない、互いに偽ってはならないとの教えで、v13~v16はそれらの具体的教えです。日雇い人の賃金を朝まで自分のもとにとどめておいてはならないと相手への優しい想像力を教え(v13)、人の弱い所につけこみ苦しめること、人の欠点や失敗を殊更に取り上げ非難することを禁じ(v14)、不正な裁判をしないこと(v15)、噂話や中傷しないことを教えています。(v16)v17~v18は心の中で憎んではならない、憎むことがないように間違っている人に無関心を装うのではなく向き合い戒めること、そうしなければ復讐又は恨みを抱くことになると教えています。まとめとして「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい(v18)」聖い歩みとは、神を畏れる神に対する歩みだけではなく、隣人を愛する歩みのことでもあるのです。

 

v19からは19章の後半の教えです。v19~v25は所有物に関する教え、v26~v31は異教的行為を排除する教え、v32~v34は社会的弱者への配慮の教え、v35~v36は経済活動における不正を禁ずる教えです。その中でv23~v25の所有物に関する教えを見ます。果樹を植え、実が実っても三年間は食べてはならない、四年目はその実はすべて聖なるもの、主への賛美のささげ物となる、そして五年目にその実を食べることができると教えています。これは単に収穫を増す技術的なことを教えているのではなく、神を全面的に畏れ所有物を取り扱うことを教えています。

 

即ち「聖い歩み」とは、宗教的部分のこと、隣人への愛のことだけではなく、全生活におけることです。(Ⅰペテロ1:15) 「礼拝と生活」ではなく、「礼拝の生活」です。(箴言3:5~7参照)言い換えるならば、主は私たちの全生活において主であって下さることを示しています。19章でも18章と同様「わたしは主である」との言葉が繰り返されています。何という心強い約束でしょうか。隣人に仕える歩み、健康や日々の糧、世で歩む戦いや孤独や虚しさにおいて愛と配慮と真実に満ちた主がともにおられます。その愛なる主を畏れる礼拝の生活に「あなたがたは生きる(18:5)」と、神は人間の勘定を超えた神の祝福を与えて下さいます。(箴言3:8~10)

 

年間聖句「あなたの履き物を脱げ。あなたが立っている場所は聖なる地である(出エジプト記3:5)」私たちが立っているそのところに、聖なる主が確かに臨在されています。その主を畏れ、聖さの内を歩み、主の祝福の中に生きていく、この信仰の原点に立ち返りたいと願います。この信仰の原点を日々の荒野の旅路を歩む道しるべにしたいと願います。そのような潔い素朴な信仰を与えられていきたいと願います。