聖書メッセージ『時の聖別』(レビ記23:1~3)

聖書箇所 レビ記23:1~3

23:1 【主】はモーセにこう告げられた。

23:2 「イスラエルの子らに告げよ。あなたがたが聖なる会合として召集する【主】の例祭、すなわちわたしの例祭は次のとおりである。

23:3 六日間は仕事をする。しかし、七日目は全き休みのための安息日、聖なる会合の日である。あなたがたは、いかなる仕事もしてはならない。この日は、あなたがたがどこに住んでいても【主】の安息日である。

 

説教要旨

23章と24章前半は「時を神の前に取り分けること」が語られています。神は、イスラエルに「聖なる会合」「主の例祭」を語られました。(v1、v2)「主の例祭(v2)」と、例祭は人間が時や方法を決めるのではなく、神が時や方法をお決めになられました。主の例祭の最初に挙げられたのが安息日礼拝でした。(v3)十戒に「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ」と、神はご自身の創造と救いの業を祝う日として、他の六日間とは区別し、神のために取り分けよと命じられていました。その十戒を基にレビ記では民が集まって礼拝を捧げる日と定められました。教会は、キリストの復活を記念し、土曜日から次第に日曜日を安息日とし礼拝を捧げました。私たちは主日を安息日として取り分け、主に礼拝を捧げます。体調、介護・看病、働き等でやむを得ず礼拝に出席できない時もあるでしょう。しかし、基本的姿勢は、主日を他の六日間とは区別し、礼拝を捧げます。そして、それは、レビ記において、民が「集まって」ということでした。旧約時代だけが聖なる会合があったのではなく、初代教会は集まって礼拝を捧げました。また「自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう(へブル10:25)」と迫害下にあった教会に書き記しています。主日礼拝は、個人の礼拝ではなく、神の民の礼拝です。集まるのは、礼拝は神の民がともに捧げるとの本質的な面と、互いに励まし合うためでした。コロナ禍が終わって、世の中は便利さ等故に集まらないこととなっても、教会は集まる群れであり、集まることを通し励まし合っていく群れです。

 

「時の聖別」ということで、24章で、神は民に純粋なオリーブ油を持って来させ、アロンにより幕屋内の燭台に夕方から朝まで絶えず燈火をともすことをお命じになられました。(v1~v4)夕方は一日の初めですが、それは日ごとになすものでした。燈火が燭台に灯っていることは、荒野で昼は雲の柱、夜は火の柱として伴われた絶えざる主の臨在を、また、民は日ごとにその主の臨在を覚えることを表していました。これは「安息日礼拝」についで、「日ごとの礼拝」「日毎の静思の時間」を教えています。一日のはじめに主の前に出ます。自分の今の魂を見つめ、そこに語られる主の言葉に聴き、臨在の主を見上げ、今抱えている重荷を主におろし、主から力を受けます。主イエスは、絶えず父なる神と交わる「礼拝の生活」をなされておられましたが、同時に人を避け寂しい所に行かれ、父なる神との交わりを持つ「時の聖別」をなされておられました。

 

但し、時の聖別は、時を聖別すること自体が目的ではありません。「主の例祭(v2)」「わたしの例祭(v2)」「主の安息日(v3)」とあります。出エジプト記や申命記にも安息日規定がありますが、そこにはただ「安息日」とあるだけです.でも、レビ記では「わたしの」安息日となっています。(19:3、30、26:2)幕屋を建てたならば、わたしはあなたがたの只中に住む、礼拝にご自身が臨まれることと関係しているでしょう。主日礼拝に、日ごとの礼拝に、主は私たちと出会い、語りかけて下さいます。主イエスが絶えずともにおられることへと立ち返らせて下さいます。新しい週、新しい一日を主に握られて歩み出すことができます。時を聖別していく時にそれ以外の六日間、それ以外の二十数時間が主の素晴らしい祝福の中に置かれていくこととなります。「時の聖別」は19章の「礼拝の生活」をなすための「要」と言えるでしょう。「どこに住んでいても主の安息日である(v3)」私たちの置かれる状況は変わります。日々の出来事や人間関係において喜びや苦しみの中を通らされます。でも、決してその中で動かしてはならないことがあります。安息日を聖別し、静思の時間を持ち、主と交わり主を見上げていくことです。それさえしっかりと確立しているならば、主は必ず私たちをご自身の栄光が現される形で導いて下さいます。時の聖別から礼拝の生活は始まり、神の祝福の生活は始まっていきます。