聖書メッセージ『荒野にて』(民数記10:11~17)

聖書箇所 民数記10:11~17

10:11 二年目の第二の月の二十日に、雲があかしの幕屋の上から離れて上った。

10:12 それでイスラエルの子らはシナイの荒野を旅立った。雲はパランの荒野でとどまった。

10:13 彼らは、モーセを通して示された【主】の命により初めて旅立った。

10:14 まず初めにユダ族の宿営の旗が、その軍団ごとに出発した。軍団長はアミナダブの子ナフション。

10:15 イッサカル部族の軍団長はツアルの子ネタンエル。

10:16 ゼブルン部族の軍団長はヘロンの子エリアブ。

10:17 幕屋が取り外され、幕屋を運ぶゲルション族、メラリ族が出発。

 

説教要旨

本日から民数記を見ていきます。民数記は、神と契約を結ばれ、礼拝の戒めを受けたイスラエルの民がシナイから旅立ち、約束の地カナンに向かう荒野の旅路が記されています。ヘブル語聖書は「荒野にて」との書名です。民は約一年宿営したシナイの荒野を旅立ち、カナンに向かったのですが、「雲はパランの荒野でとどまった(v12)」と、荒野の旅路が続きました。荒野とは「頼るべきものがない所」また「敵(獣、異国人)の攻撃が身近な危険な所」でした。神は、その荒野にて約束の地カナンを自分たちのものとする将来のための訓練をなされました。

「軍団(v14)」「軍団長(v14)」とあります。これは民数記冒頭の「人口調査」を受けています。神はシナイの荒野を旅立つ前に「戦い」のための人口調査を命じられました。(1:1~3)それはカナンを自分たちのものとする戦いの備えでした。出エジプト記とレビ記は、イスラエルは「礼拝の民」であることをが示されていましたが、民数記は礼拝の民であることを土台としつつ「戦いの民」であることが示されているのです。新約時代において、教会は「戦いの民」です。それは勿論戦争を肯定しているのではなく、「霊的な」事柄として「戦いの民」です。この世に神の国を建て上げる「宣教の民」であるのです。教会の務めは「礼拝」と「宣教」です。この世界は神に造られた素晴らしいものですが、人間が神に背いた結果、悪の力に支配され、神の御心が完全に行われていません。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)」エペソ書の文脈を見ていく時に神の国の拠点である教会が愛の内に建て上げられること、キリスト者が世において光の子どもらしく歩むこと、夫婦・親子・主僕の教えとなっていますが、それらを受けて先の言葉が言われています。教会を建て上げること、この世で光の子どもとして生きること、夫婦の歩みや子育てにおいて神の御心に生きることを妨げる悪の力があります。そのような中で私たちは神の国を建て上げていきます。神に背を向け、罪の中で苦しむ人に神に立ち返らせるキリストの福音を宣べ伝えていきます。直接的にイエス様のことを宣べ伝えることはないとしても、自らの存在と歩みを通し神の素晴らしさが現われるようにとの願いと祈りをいつも持って歩みます。「礼拝と生活」と分けるのではなく「礼拝の生活」をなすのと同様に、「宣教と生活」ではなく「宣教の生活」をなしていきます。

この世に、家庭や職場に神の国を建て上げていくことは、私たちが先立って独りでなすのではなく、主が私たちに先立ってともに戦って下さるのです。主の臨在を示す「雲」が離れて上り、それで民は旅立ちました。(v11、v12)主イエスは、ゲッセマネの園での祈りを終え、捕えに来た者たちの所に向かう時、弟子たちに「さあ、行け」ではなく、「さあ、行こう(直訳:さあ、私たちは行こう)(マタイ26:46)」と仰せられました。私たちは戦いの中にある時に主を信じていないわけではないですし、主に祈ります。でも、遠く天で見ておられる主との信仰であるかもしれません。でも、それだけではありません。私たちの戦いの只中に主は先立ちともに戦って下さっておられます。(エペソ6:13参照)その主に信頼し戦いをなしていきます。神は、民数記「荒野にて」、約束の地カナンを自分たちのものとする戦いに備え主に拠り頼むことを徹底的に教えられたのです。特に神の時に委ねること、神の時を待つことを教えられたのです。(9:15~23)

私たちはただ自分そして隣人のために歩みをなしているのではなく、この世に神の国を建て上げていくために生かされている「宣教の民」です。それを妨げる悪の力との戦いがあります。でも、その只中に先立ちともに戦って下さっておられる主に拠り頼み、時を委ね、神の武具を身につけ、主の働きに仕えていきましょう。