聖書メッセージ『恐れてはならない』(民数記13:1~3)

聖書箇所 民数記13:1~3

13:1 【主】はモーセに告げられた。

13:2 「人々を遣わして、わたしがイスラエルの子らに与えようとしているカナンの地を偵察させよ。父祖の部族ごとに一人ずつ、族長を遣わさなければならない。」

13:3 モーセは、【主】の命により、パランの荒野から彼らを遣わした。彼らはみな、イスラエルの子らのかしらであった。

 

説教要旨

シナイの荒野を旅立ち、カデシュ・バルネアまで来た時、主はモーセに十二部族から一人ずつを選び、カナンの地を偵察するよう告げられました。彼らを遣わすのは、イスラエルがカナンを自分たちのものとすることができるかを調べさせるためではなく、「わたしがイスラエルの子らに与えようとしているカナンの地を偵察させよ(v2)」と、神がすでに与えると約束された約束の地カナンを偵察させ、その素晴らしさを見させ、また前もって戦いの厳しさを知らせ、しかし、主に信頼し、自分たちのものとさせるためでした。v4~v16は、遣わされた族長名が語られ、v17~v20は、偵察内容が告げられています。その最後には「その地の果物を取って来なさい(v20)」と待っているイスラエルの民に与えられるカナンの地がいかに素晴らしいかを示そうとされました。v21~v24は、偵察するカナンの地名が告げられ、偵察隊はカナン全土を偵察しました。ぶどう一房を二人で担がなければならないほど肥えた地があったのです。(v23)偵察隊は四十日間カナンを偵察し、カデシュ・バルネアで待っていたモーセとアロンそしてイスラエルの全会衆の所に帰ってきて報告し、果物を見せ(v26)、モーセにカナンが肥えた良い地であることを報告しました。(v27)しかし、「ただ」と続け、住民の力強さ、町の堅固さを告げ、特にアナクの子孫を見たことを報告しました。(v28~v29)民は恐れ騒ぎ立ちました。その時、ユダ族のカレブは民を静め「私たちは…必ず打ち勝つことができます(v30)」と告げました。

 

カレブは、一緒に行った他の偵察隊が見てきた報告内容を否定したのではありませんでした。でも、必ず打ち勝つことができると述べたのは、「わたしがイスラエルの子らに与えようとしているカナンの地(v2)」との主の約束、主の言葉に信頼したから、即ち主に信頼したからでした。しかし、他の偵察隊はカレブの言葉を否定し(v30)、民に「…私たちの目には自分たちがバッタのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう。」(v31~v33)」と悪く言いふらしました。偵察隊の報告を聞いた全会衆は大声を上げて叫び、その夜、泣き明かし、かしら一人を立ててエジプトに帰ろうと述べました。(14:1~4)モーセとアロンは、民の不信仰の赦しを求め神にひれ伏し祈りました。(14:5)ヨシュアとカレブは全会衆に向かって告げました。「…ただ、主に背いてはならない。…主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」(14:7~9)」

 

十人の偵察隊の報告には「主」という言葉が一度も出てきません。相手の強さ、町の堅固さだけを見、そこには主への信頼がありませんでした。一方、カレブとヨシュアは、現実をしっかりと見つつ、主なる神への信頼に立ちました。

 

また、十人の偵察隊は背の高い民や強いアナク人に対し自分たちをバッタのように見えたとしました。(v33)しかし、神は、契約時イスラエルに「わたしの宝となる」と約束されていました。(出エジプト記19:4~5)自らの弱さを認めることは大切なことです。でも、私たちが見失ってはならないことは、天地万物を創造された神が私たちを罪の中から救い出し神の民、神の子どもとして下さったことです。私たちは誤った選民意識のようなものを持ってはなりません。救われたのは神の一方的な恵みです。でも、私たちは覚えていたいのです。私たちが私たちを見る見方や人が私たちを見る見方ではなく、神が私たちを見る見方で私たちを見るのです。神が独り子イエス・キリストの命という大きな犠牲を払い贖って下さった私たちです。主のものとされ、主に愛でられているのです。病の中でも、人間関係の困難な中でも、主に担い続けられています。主の勝利の約束がない中での戦いではなく、主の勝利の約束のある中での戦いです。主の約束に堅く立ち、今ある戦いにおいて主に信頼し従っていきましょう。