聖書メッセージ『私を知っておられる神』(詩篇139:1~6)

聖書箇所

139:1 【主】よあなたは私を探り知っておられます。

139:2 あなたは私の座るのも立つのも知っておられ遠くから私の思いを読み取られます。

139:3 あなたは私が歩くのも伏すのも見守り私の道のすべてを知り抜いておられます。

139:4 ことばが私の舌にのぼる前になんと【主】よあなたはそのすべてを知っておられます。

139:5 あなたは前からうしろから私を取り囲み御手を私の上に置かれました。

139:6 そのような知識は私にとってあまりにも不思議あまりにも高くて及びもつきません。

 

説教要旨(子ども成長祝福式)

本日は、成長祝福式を覚え、詩篇139篇の神の言葉に聴いていきます。詩人は、冒頭で歌いました。「主よ あなたは私を探り 知っておられます。(v1)」聖書は、私を深く調べ、知っておられる神がおられると告げます。詩人は神のことを理屈として抽象的に誰かに教えようとしているのではなく、命を奪おうとする神を畏れない敵につきまとわれた苦しみの中で(v19)、自らの体験と信仰から歌っています。神は何を知っているのでしょうか。第一は「行ない」を知っていて下さいます。「座る」と「立つ」が対比的(v2)、「歩く」と「伏す」が対比的になっており(v3)、「すべて」を表します。行ないすべてを知っておられます。(v3)しかし、「行ない」だけを知っておられるのではなく、詩人が特に言いたかった事はこちらだと思いますが、「心」を知っておられるのです。「私の思い(v2)」「ことばが私の舌にのぼる前に なんと主よ あなたはそのすべてを知っておられます。(v4)」祈りが言葉とならず、あちらこちらに裂かれている苦しみの心を神は深く調べ、すべて知って下さっておられます。

 

何故でしょうか?「あなたこそ 私の内臓を造り 母の胎の内で私を組み立てられた方です。(v13)」「内臓(v13)」は、心の座を表していました。神は、私の心の座を造られ、私を母の胎の内で造られたからです。あなたや私は偶然生まれ、偶然在り、偶然生きているのではなく、神が「在れ」とご計画され、母の胎の内で形造られ、生まれ、生かされています。神の眼差しが一人ひとりにあります。(v16)神は、この世界をお造りになられた偉大なお方です。でも、宇宙の果てにおられる遠いお方ではなく、「あなた(v1)」と呼ぶことのできる近しいお方、誰にも分かってもらえず、自分でも分からない苦しむ私の心を知って下さるお方であられます。

 

詩人は、神への祈りをもって詩を終えています。私の心を、私の思い煩いを深く調べ、知ってくださいと祈り(v23)、そして「私のうちに 傷のついた道があるかないかを見て わたしをとこしえの道に導いてください。(v24)」と祈ります。「傷のついた道(v24)」とは、傷ついている心というのではなく、「不信の道」「悪い道」「偶像の道」とも訳されています。詩人は、敵から命を追われ、苦しみに置かれ、自分の命を狙う悪を滅び去れと歌っています。(v19~v22)それは個人的な恨みというよりも、神を憎む悪そのものが過ぎ去れと歌っています。しかし、このv24では、内省へと導かれ、自分の内にも悪の道がないか、神に喜ばれない道がないかを見て、神への不信や悪の道に傾く私を「とこしえの道に導いてください(v24)」と祈っています。「とこしえの道(v24)」とは、時間的長さを表しているのではなく、「神とともなる道」「神の御心の道」のことです。ある人は、このv23とv24の祈りは、イエス・キリストがこの地上を歩まれた時に内にあり続けた祈りではなかったかと述べています。その通りでしょう。イエス・キリストは、この地に来られ、不信の道ではなく、父なる神の御心に従う道、私たちを愛し私たちの罪の身代わりに裁かれる十字架の道に導いて下さいと祈り、十字架の死に従われ、私たちに神とともなる道をお開き下さいました。神は、私たちがイエス・キリストを信じ、神に立ち返り、神とともに歩むとこしえの道に生きることを願っておられます。健康が与えられ、平穏に歩むことは素晴らしいことですが、神がそれ以上に願っておられることは、神に立ち返り、神とともに歩むことです。

 

「心の底をこんなにも新しくしてくださる神さまがいる(横田早紀江さん)」心の表面を癒し楽しませてくれる人の言葉や物はこの世にたくさんあるでしょう。でも、心の底を新しくして下さるのは、私たちを造られ、深く知っておられる神です。イエス・キリストを信じ、神に立ち返り、神に導かれて歩む真の祝福の道を子どもたちが、私たちが歩んでいきましょう。聖霊は、私たちを助け、その歩みをなさせて下さるのです。