聖書メッセージ『贖われた喜び』(イザヤ43:1~4)

 

聖書箇所 イザヤ43:1~4

43:1 だが今、【主】はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。

43:2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。

43:3 わたしはあなたの神、【主】、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。

43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。

 

説教要旨

2021年最初の主日を迎えました。年間聖句はイザヤ書43:1「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。」年間標語は「贖われた喜びに生きる教会」です。この年、神に贖われたことは、いかに素晴らしい恵みであるのか。クリスチャンとされたこと、クリスチャンで在ることはいかに素晴らしい恵みであるのか。御言葉に聴き、深い喜びの中をともに歩んで参りましょう。本日から数週に渡ってイザヤ書43章1節~7節の御言葉に聴いていきます。本日はv1を中心に見て参ります。

 

イザヤは、紀元前8世紀半ば~紀元前7世紀に活動した預言者であり、バビロニア捕囚の神の裁きと捕囚解放の神の回復を預言しました。この箇所で冒頭に「だが今(v1)」とあります。これは前の42章の言葉を受けての「だが」です。42章は、イスラエルのバビロニア捕囚が語られています。主なる神は、ご自身を畏れず、神の言葉に頑なに聴き従わないイスラエルを悲しまれ、怒られ、裁かれ、バビロニアに渡したのでした。イスラエルの民は、バビロニアに連れて行かれ、捕囚となりました。

 

しかし、そのイスラエルの民に「だが今、主はこう言われる。(v1)」と神はイザヤを通し救い(回復)を語られたのです。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。(v1)」「贖った(v1)」とは過去を述べているのではなく、「預言的完了形」で「必ず贖う」との意味です。バビロニア捕囚解放が約束されています。「贖う(v1)」とは、親族の誰かが死んだ時、その人に神から割り当てられた土地や家族が他の人の手に渡ってしまった場合、親族の中で最も身内の者が代価を払い買い戻すことです。神はバビロニア捕囚とせられたイスラエルの民を代価を払い買い戻されるのです。「わたしが(v1)」と、イスラエルの民が借金を払い解放されるのではなく、神ご自身が代価を払い贖うのです。そして「あなたを」と単数形で言われております。v1~v7はすべて「あなた」と言われています。それは勿論イスラエルの民を表していますが、イスラエルの民一人ひとり、「あなた」「私」という個人も覚えられていることを表しています。教会は、クリスチャンは、あなたは、私は神に贖われたものです。以前、私たちは神に背き、神から離れ、罪の力に支配されていました。「自分の背きと罪の中に死んでいた者(エペソ2:1)」でした。しかし、神ご自身がその私たちを愛し、罪の中から買い戻して下さったのです。神が私たちを罪の中から贖うために払われた代価は、ご自身の大切な独り子イエス・キリストの命でした。

 

「贖う(v1)」とは、罪の中から買い戻されただけではなく、神が私たちをご自身のものとして下さったということです。「あなたは、わたしのもの(v1)」私たちは、神の所有とされたのです。神が私たちの歩みに責任を負って下さることを表しています。イザヤ書では、「贖う」「贖う者」との言葉が数多く使われていますが、その中で「背負う」との言葉と同時に使われてもいます。(63:8~9)神のものとされたことは、私たちの人間のように感情で関係が揺れ動くようなものではなく、契約に基づいて神が責任を負って下さるのです。いかなる悲しみや苦しみの中においても神は決して私たちを見捨てないのです。時に罪の失敗がありますが、私たちの罪によって神のものとされていることが失われることはないのです。クリスチャンとせられたということは、今までの私たちの人生に少しイエス・キリストが付け加えられたというのではなく、私たちまるごとが罪の中から贖われ、神のものとされ、神が私たちを背負って下さるということです。『ハイデルベルク信仰問答』「問一 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。 答 わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。」新しい一年、神に贖われた深い喜びに生かさていきましょう。