聖書箇所 イザヤ43:1
43:1 だが今、【主】はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。
説教要旨
2021年、イザヤ43:1を年間聖句とし、「贖われた喜びに生きる教会」との標語をもって歩んで参ります。「贖われた」とは、神がご自身に背き罪の下にあった私たちを神の御子イエス・キリストの命という掛け替えのない代価を払い罪の下から買い戻しご自身のものとして下さったことです。私たちは、イエス・キリストを信じ、贖われました。神のものとされています。しかし、その贖いの出発は、信じた私たちの求道や決心にあるのではなく、「わたしはあなたの名を呼んだ(v1)」と私たちの名を呼んで下さった神の選びと主権的に救いの働きをなして下さった神の召しにあります。
神が名を呼ぶということは、どういうことでしょうか。私たちが人の名を呼ぶ時、その人を知らなければ、名を呼ぶことはできません。神は私たちを知っておられるのです。そして、神が私たちを知っておられるのは、神が私たちを造られたからです。「あなたを創造した方(v1)」「あなたを形造った方(v1)」神はいつ私たちの名を呼んで下さったのでしょうか。「だが今…(v1)」とイスラエルが神に背き、神の裁きとしてバビロニア捕囚とされていた時に、神は名を呼ばれました。神が名を呼んで下さったのは、私たちが神に背を向けている時、神を無視している時、「神なんかいるものか」とうそぶいている時です。神に少しでも心開くようになり、神や聖書への関心を持ち始めた時に、神は名を呼んで下さったのではありません。神に敵対している時に、神は私たちの名を呼んで下さったのです。では、神は、何故私たちを呼んで下さったのでしょうか。イスラエルの民が大きかったからではなく、「主があなたがたを愛されたから(申命記7: 8)」と、イスラエルの側に理由はありませんでした。神は私たちを一方的に愛して下さった故に名を呼んで下さったのです。そして、ここで「ヤコブよ(v1)」「イスラエルよ(v1)」と繰り返されていますが、個人的に、人格的に、慈しみをもって私たちの名を呼んで下さったのです。何という驚くべき恵みでしょうか。世界を、太陽を、星を、すべてのものを創造され、今もすべ治めておられる神が、この世界の片隅に住む私を造り知り、神に背を向けていた時に、一方的に慈しみをもって名を呼んで下さったのです。それが贖いの「始点」です。
そして、神は、今も贖い出して下さった私たちの名を慈しみをもって呼び続けて下さっておられます。「あなたは、わたしのもの(v1)」と続いています。神は、今、私たちが神の前に在ること、神とともに在ることを喜んでおられます。逆に、神の前にないことを悲しみ、「あなたはどこにいるのか」と探されておられます。そのことを思い巡らしていた時に、放蕩息子の兄への父親の言葉が心に響いてきました。兄息子は「私は一生懸命にあなたのために働いてきた。あなたは私には友達と楽しめと言って子やぎ一匹くれたことがない。でも、遊女と一緒にあなたの財産を食いつぶした息子が帰ってくると肥えた子牛を屠るとは何ですか。」と文句を言いました。その時に父親が述べたことは「子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。(ルカ15:31)」でした。父は兄息子に愛をもっと見える形で表していたら良かったのではとも思っていたことがありました。でも、父の最も大きな愛は、父の前に兄息子がいることを喜んでいたことです。兄息子は、父の愛、父の喜びを受け取っていなかった、何かをしなければ父は愛してくれないとの色メガネがあったのです。神は私たちの名を呼び、贖われた私たちを「あなたは、わたしのもの」と愛し、受け入れ、喜んで下さっておられます。その愛の中に生かされているのです。その愛を知って生きることができるのです。どんなに弱さを覚え自分を責めても、コロナをはじめ不安や困難の中にあっても、その主の愛に立ち返ることができるのです。そして、主は確かに私たちを愛して下さっておられます。それが贖われた喜びです。