聖書メッセージ『主は集める』(イザヤ43:5~6)

聖書箇所 イザヤ43:5~6

43:5 恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東からあなたの子孫を来させ、西からあなたを集める。

43:6 北に向かっては『引き渡せ』と言い、南に向かっては『引き止めるな』と言う。わたしの息子たちを遠くから来させ、娘たちを地の果てから来させよ。

 

説教要旨

「贖われた喜びに生きる教会」として2021年を歩んでいます。本日は「集める(v5)」との言葉を特に覚えていきます。神はv1と同様「恐れるな(v5)」と語られ、バビロニア捕囚の中で「わたしがあなたとともにいる(v5)」とv2に重ねるようにして語られました。そして、「贖う」バビロニア捕囚解放の約束を語られています。(v5、v6)「贖う」が、単にバビロニア捕囚帰還を告げているのではなく、「集める(v5)」と告げています。「バビロニア捕囚解放」を「集める」と告げるのは、ここだけではなく、イザヤ書において幾つかあり(54:6~7等)、また、エレミヤ書やエゼキエル書においても同様にそう語られています。そして「集める」は、神を羊飼い、民を羊とし、羊飼いと羊の関係で多く使われています。(イザヤ40:11等)即ち、贖うとは集めること、イスラエルの民の群れを形造ることです。そして「息子たち(v6)」「娘たち(v6)」と民の一人ひとりが意識されています。新約時代において、主イエスは「わたしは…わたしの教会を建てます。(マタイ16:8)」と仰せられています。また、「散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられる(ヨハネ11:52)」とあります。贖いは、ただ神の私に対する個人的な御業だけではなく、教会を建て上げる御業でもあります。

 

聖書は、この「集める(v5)」ことと「養う」ことをセットのようにして語っています。「わたしは…国々から彼らを集め、…彼らを養う。(エゼキエル34:13)」神は羊飼いとして民を集め、養うのです。「養う」とは「自分の家畜に餌を与えて養う」との意味です。神は、私たちを教会の中で神の言葉という食物により霊的にお養い下さいます。私たちは独りで静思の時間を持ち聖書に聴き養われます。しかし、土台は、神は、教会において、私たちの信仰を神の言葉によってお養い下さるのです。ともに御言葉に聴き、ともに聖餐の恵みに与ることにおいて養って下さいます。それは急激なものではなく、ゆっくりと長い時間をかけてのものです。

 

教会が集められ、養われる中心はどこでしょうか。神が名を呼び、お招き下さる主日礼拝です。「集める」と「安息日」の教えが、イザヤ56:1~8、58:13~14で語られています。神は、主日礼拝に私たちを集められます。礼拝の最初は「招詞」です。主にあって感謝な出来事や御心にそった歩みができた喜びの過ぎし週もあるでしょう。聖い神の前に、隣人に対し本当に相応しくなく自分の弱さが出た痛みを抱えての過ぎし週もあるでしょう。しかし、それらすべてをご存知の主が、私たちを礼拝にお招き下さいます。イエス・キリストの十字架の贖いにより、聖なる神の前に立たせていただけるのです。そして、神は、御言葉において、私たちに臨み、交わり、養い、神の祝福を与え、聖霊によってそれぞれの持ち場へと遣わして下さいます。今は、緊急事態宣言の中で、原則インターネット礼拝となっていますが、場所は異なりますが、霊的にともに集まって礼拝を捧げているのです。そして、やがては文字通りともに集まって礼拝を捧げる日が来るよう切に祈ります。また、「わたしの聖日に自分の好むことをせず(58:13)」とあります。自分の生活に礼拝を合わせるのではなく、礼拝に自分の生活を合わせます。時間を聖別し、民とともに礼拝を捧げます。そこに主の祝福があるのです。(56:7)(58:14)主は、安息日を聖別していく聖なる習慣の中で私たちの魂を守り、養って下さいます。

 

神は、私たちを贖い、独りの信仰生活ではなく、信仰共同体の中に迎え入れて下さいました。神は、御言葉によって私たちを養って下さいます。戦いがありますが、主日を聖別し、魂の祝福を受けて歩んでいきます。この礼拝の時、御言葉において主が私たちに臨んで下さっておられますから、罪や重荷を主の前に下ろし、主の祝福を受け、新しく持ち場へと遣わされていきましょう。教会に加えられている恵みに感謝します。