聖書メッセージ『主の栄光が現れる』(イザヤ60:1~3)

聖書箇所 イザヤ60:1~3

60:1 「起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。【主】の栄光があなたの上に輝く。

60:2 見よ、闇が地をおおっている。暗黒が諸国の民を。しかし、あなたの上には【主】が輝き、主の栄光があなたの上に現れる。

60:3 国々はあなたの光のうちを歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。

 

説教要旨

1月からイザヤ書43章1節~7節の御言葉に聴いてきました。神が一方的にイスラエルを愛し、代価を払い買い戻し、神の民として形造ることが語られ、それは「わたしの栄光のため(43:7)」と神が崇められ、また救い主である神が神の民を通して世に明らかにされるためでした。神が教会に委ねられた使命は、神を礼拝することと神を証しすること(宣教)です。本日ともに聴くイザヤ書60章は、その使命の一つ「宣教」のことが明確に語られています。「起きよ。輝け。(v1)」誰に向かって命じているのでしょうか。イザヤ書は40章~66章が後半です。40章~55章はバビロニア捕囚解放が語られ、56章~66章は贖われた民への神の祝福の約束が語られています。ですから、この神の命令は、贖われた新しい神の民、新約時代の教会に向けて語られています。立ち上がって、光を放て、救い主なる神を証しせよと。しかし、それは神の民自身が光を放つことではありません。「まことに、あなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く。(v1)」神が救いの光イエス・キリストを神の民に与えて下さる(59:20)、神の民はその救いの光イエス・キリストを映し出すのです。

 

「見よ、闇が地を覆っている。暗黒が諸国の民を。(v2)」この世は神に背き、赦しや平和を求めず、力を求めます。目に見える物、富や地位に心奪われ、しかし満ちないでおります。(59:1~8)「しかし、あなたの上には主が輝き、主の栄光があなたの上に現れる(v2)」教会は、キリスト者は「世の光(マタイ5:14)」です。私たちは置かれた持ち場に神の愛の光を、イエス・キリストの救いの光を映し出すために在るのです。しかし、それは分かっているのですが、世の闇は深いのです。いいえ、世だけではなく、私たちも神に贖われましたが、なお罪の性質が残っており、心は直ぐに波立ちます。湖面が波立つと風景を美しく映し出せないように、キリストの愛と救いの光を映し出すこととは反対の歩みをしてしまいます。一体どのようにしたら神の栄光を映す歩みができるのでしょうか。

 

59章20節と60章1節の間に59章21節の御言葉があります。主が神の民と結ぶ契約は、神の霊と神の言葉はとこしえに離れないということです。決して離れない神の霊と神の言葉によって私たちは、神の救いを映し出す歩みへと導かれていくのです。エゼキエル書37章4節~6節には、干からびた骨イスラエルに、主の言葉が語られ、神が息(霊)を吹き入れると、干からびた骨が生き返るとの預言があります。使徒パウロはこのことから「霊は生かす(Ⅱコリント3:6)」と告げ、「私たちはみな、…鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(Ⅱコリント3:18)」と語ります。イエス・キリストを信じ、贖われた私たちに聖霊が住んでおられます。聖霊は、神の言葉とともに働きます。御言葉に聴き、聖霊が私たちを導き、救い主の輝きを映し出す者へと造り変えて下さるのです。干からびた骨が生き返るのです。石の心がしなやかな肉の心(新しい心)とせられていきます。教会は、自分の力や決意を拠り所とする民ではなく、日々御言葉に聴き聖霊に拠り頼み新しく造り変えられ救いの光を映し出していく神の民です。そして、聖霊と御言葉は「今よりとこしえに離れない(59:21)」のです。こうして国々は神の民の光のうちを歩むのです。集められてくるのです。(v3~v4)勿論、伝道は出ていく面もありますが、主イエスの愛の光が在る所に人々が集められてくるのです。

 

「主の栄光が現れる」主の救いの光が私たちの上に照らされ、御言葉と聖霊によって歩む私たちを通してその光が世に現されていきます。新しい週、御言葉に聴く歩みを整え、御言葉とともに働く聖霊に絶えず助けていただき、造り変えられ、キリストの光を映し出す歩みへと導かれていきましょう。御言葉と聖霊は、私たちからとこしえに離れないのです。