聖書箇所
53:7 彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
53:8 虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。
説教要旨
「彼は痛めつけられ、苦しんだ(v7)」主なる神は、私たちの罪をしもべに負わせ、裁かれました。(v6)「だが、口を開かない(v7)」苦しみを黙々と耐え忍び自ら負っていく従順を表しています。その姿を羊に例えています。(v7)v6では私たちが迷える羊に例えられ、v7ではしもべが犠牲となる羊に例えられています。「羊」「雌羊」はいずれも単数形です。しもべは、羊飼いなる神に背き神から離れている羊なる私たちの罪を独り自ら負い、屠られ罪を取り除く羊となられるのです。(v10)私たちは羊飼いから離れた羊のように神に背き、また「それぞれ(v6)」と隣人を愛する歩みとは異なる道を歩んでいます。パウロは隣人を愛するという時に「建築する」との言葉を使っています。しもべは、人間とは全く対照的に、神に従順に隣人を救い建て上げる道を独り歩むのです。遂に死にまでも従われます。(v8)不正な裁判により死なれます。人々は彼の死が自らの背きを負ってのものであることに全く気づかないのです。しかし、しもべは、まさにそのような者の罪を負われ、神に従順に従い死なれるのです。
新約聖書は、イエス・キリストの十字架に向かわれていく姿を二つの言葉で示します。一つは「引き渡された」です。神がご自身の計画の中で主イエスを十字架に引き渡されたのです。もう一つは「自分で十字架を負って」です。(ヨハネ19:17)(Ⅰペテロ2:19~24)主イエスはユダヤの最高議会とローマ総督ピラトによる不正な裁判を受け死刑に定められました。ピラトも驚くほど、主イエスは黙しておられました。人々はからかい、「十字架から降りてみよ」と嘲りました。自分たちの罪を負ってのものであることに全く気づかなかったのです。しかし、主イエスはその彼らのために赦しを祈られ(ルカ23:34)、決して十字架から降りませんでした。父なる神のご計画に従い切られ、私たちを愛し尽くし、贖いの御業を成し遂げて下さいました。神はその従順にご自身に従い贖いを成し遂げた主イエスを埋葬を経て復活させ天に上げ栄光へと高められました。私たちは主イエスの神に従い私たちに仕える十字架の死により完全に罪赦され、神の平和と癒しが与えられています。主に心より感謝したいと願います。
そして、この御言葉は、私たちもキリストの御足跡に従っていくことが語られています。しばしば「自分らしく生きる」ということが言われます。確かにその通りでしょう。でも、自分らしく生きるとは、丁寧に考える必要があります。自分の思いのままに生きるということならば、どこか罪の匂いがします。そして、そこに真の喜びはないでしょう。私たちの歩みはそうではありません。主の前に生きる。人間的には闘いがあり、重荷である。でも、主から委ねられた使命を黙々と担っていきます。人に顧みられないかもしれない。家庭や職場で独りであるかもしれない。主の教会の務めで闘いを覚えることがあるかもしれない。でも、主の前に神に仕え隣人を愛していく、それがキリスト者の歩み、教会の歩みです。勿論、失敗がありますし、そうできないこともあります。でも、主を愛し隣人に仕えていく基点に立ち返っていきます。独り損をしているように思えることがあるかもしれません。誰かに分かって欲しいと思うこともあります。互いに祈りに覚え、感謝を表していきたいと思います。でも、覚えていたいのです。主は独り十字架を負って神の御心に歩まれました。一匹の羊に例えられています。(v7)たとい理解や感謝を得られずとも、神に従い隣人に仕えていく道は、独りではないのです。「模範を残す(Ⅰペテロ2:21)」の「模範」は「なぞり書き」を表します。主イエスが先に歩んで下さった道であり、主イエスがともに歩んで下さっている道です。イザヤ書46章を見ると、生まれた時から白髪になっても、主が背負って下さっている道です。苦難を経て高められていく道です。本日の教会総会を前にして、その献身の原点に今一度立ち、主とキリストの教会にともに互いに仕えて参りましょう。