聖書メッセージ『彼の墓は』(イザヤ53:9)

聖書箇所

53:9 彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。

 

説教要旨

「彼の墓は…その死の時に設けられた(v9)」しもべは死に、葬られます。「葬り」は、しもべの「死」を確証しています。しもべは確かに死ぬのです。四福音書はいずれもイエス・キリストの葬りを告げています。パウロは「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと(Ⅰコリント15:3~4)」と語っています。これに基づいて、主日礼拝で告白する『使徒信条』でも、「死にて葬られ」と告白します。イエス・キリストは十字架で確かに完全に死なれたのです。

 

しもべの墓が「悪者どもとともに(v8)」設けられると語られています。家族の墓に葬られるのではありません。しもべは罪人の一人として死なれるのです。しかし「富む者とともに(v9)」と続きます。痛めつけられ蔑まれた不名誉な死にも関わらず、富む者として埋葬されます。イエス・キリストは、罪人の一人として十字架で死なれました。十字架刑はユダヤ人が見ますならば「神にのろわれたもの」でした。十字架刑を執行された犯罪人は、共同墓地に投げ捨てられました。しかし、主イエスは金持ちのアリマタヤのヨセフが自らのためにエルサレムに用意した墓に埋葬されました。宗教指導者ニコデモによって考えられないほどの高価な香油をもって埋葬されました。「彼は不法を働かず、その口に欺きはなかった(v9)」彼の死が彼自身の罪の故ではなく、私たちの罪を負ってのものであることが示されています。「死」が「取り去られた(v8)と受身形であったと同様に「葬り」が「設けられた(v9)」と受身形で語られています。神のご計画の中で、しもべは死に、葬られるのです。不名誉な死の後の名誉ある葬りは、v10以降のしもべが死に勝利され復活され昇天することを暗示しているのです。神は十字架の死にまで従い切られたイエス・キリストを死の中から復活させ高くされたのです。死の確証である葬りという最も暗い暗闇のただ中にイエス・キリストの復活の光はすでに輝き始めていたのです。

 

しもべの苦難の生涯と死は私たちのためでした。しもべの埋葬も私たちのためであるのです。それは、私たちの死においても、しもべなるイエス・キリストはともにいて下さることを示しています。(詩篇23:4、詩篇139: 8、ヨブ記19:25~27参照)死において、富や栄誉、そして家族や友も伴ってくれません。しかし、イエス・キリストは、ともにいて下さるのです。そして、イエス・キリストは、この埋葬が暗示しているように、私たちを天の御国、からだの復活の恵みに与らせて下さるのです。そして、その最大の苦しみである「死」において、イエス・キリストはともにおられ、復活を与えて下さるということは、私たちのあらゆる苦しみにおいてもともにおられ、復活の御力によって立ち上がらせて下さるのです。(詩篇30:5)(哀歌3:31~3:33)(Ⅰコリント4:8~10、6:8~10)私たちの生きる歩み、そして死において、ただ一つの慰め、ただ一つの拠り所となることがあります。それは、主イエス・キリストのものとされていることです。主イエス・キリストがともにおられます。十字架で死なれ埋葬され、復活された主イエス・キリストは私たちを苦難の中で立ち上がらせて下さいます。務めを担う力を与えて下さいます。

 

信仰生活は、ある意味で天の御国を待ち望んでいく「埋葬の期間」と言えるでしょう。暗闇の中で暗闇だけを見ていくのではなく、光の中に移って後に光を見るのではなく、暗闇の中で死に勝利し復活された光なるイエス・キリストを見上げていく歩みです。イエス・キリストを待ち望んでいく歩みです。イエス・キリストから目を離さない歩みです。主なる神は、イエス・キリストは、生きるにおいて死においてともにおられ復活の恵みに与らせて下さいます。長引くコロナの中で、また重荷や試練の中で疲れを覚えます。しかし、死なれ埋葬され、死の中から復活されたイエス・キリストを仰ぎ見て繰り返し繰り返し立ち上がらせていただきましょう。