聖書メッセージ『彼によって成し遂げられる』(イザヤ53:10)

聖書箇所

53:10 しかし、彼を砕いて病を負わせることは【主】のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、【主】のみこころは彼によって成し遂げられる。

 

説教要旨

本日は、棕櫚の主日です。受難節の期間、イザヤ書53章の御言葉に聴いてきました。このv10で、しもべの苦難の生涯と死こそ「主のみこころ(v10)」であると繰り返されています。しもべに神に背く私たちの罪を負わせ、しもべを裁かれることが主なる神の御心でした。(v10a)私たちの罪が創造主なる神と私たちの間を隔てています。(イザヤ59:1~2)私たちの様々な苦しみや悲しみの根っこは、神との関係が失われていることです。しかし、神は私たちを裁かれるのではなく、しもべに私たちの罪を負わせ、しもべを身代わりに裁かれ、私たちに罪の赦しと平和を与えようとされました。しもべはその神の御心に従われ、代償のささげ物として死なれ、復活し、神の御業を成し遂げられることが語られています。(v10b)

 

このしもべは、イエス・キリストを表しています。主イエスは十字架上で苦しまれ忍ばれ死ぬ直前に「わたしは渇く(ヨハネ19:28)」と仰せられ、その後「完了した(19:30)」と仰せられ死なれました。神に裁かれ砕かれ神との交わりを失い、神の救いの御業を完了させました。キリストの十字架における神の救いの御業は、今の私たちに及んでいます。神の救いの御業は完了し、完全です。人間の側の行為を付け加えるものはありません。神の救いは、神の一方的な恵みです。その救いが私たちのものとなるためには、「ありがとうございます」と手を差し出すことです。それが「信仰」です。私たちの行ないが救いの根拠であるならば、私たちは決して罪の赦しを得、救いに与ることはできません。また、私たちの信仰が救いの根拠であるならば、私たちの信仰は揺れ動きますので救いの確信や平安はありません。私たちの救いの根拠は、私たちにではなく、キリストによって成し遂げられた神ご自身の救いの御業にあるのです。ですから、私たちは完全に罪赦され、隔ての壁は取り除かれ、神に受け入れられます。神の子どもとせられ、新しいいのちの歩みを始めていくことができるのです。キリストによって成し遂げられた神の救いをご自分のものとされていない方は、信仰の手を差し出しお受け取りいただきたいのです。

 

キリストによって成し遂げられた神の救いの御業は、クリスチャンにとっても深く考えるべきことです。信仰生活において「義認(罪の赦し)」と「聖化(成長)」を一緒くたにしてしまっていることがあるように思います。キリスト者は、キリストを信じ、すでに罪赦され、義と認められたのです。神の子どもとされ、神を天の父と呼ぶことができるのです。地上での生涯を終え、神の御前に立たされる時、決して罪に定められることなく、天の御国へと迎え入れられます。しかし、私たちの信仰生活において、なお罪の弱さや失敗があります。その時に私たちは「義認」まで疑ってしまいます。しかし、そうではないのです。クリスチャンになった後の罪や弱さは、神の前にそのまま告白し、罪の赦しを願います。(Ⅰヨハネ1:9)しかし、それは義と認められ、神の子どもとされたという立場を失って罪の赦しを願っているのではありません。すでに義と認められ、神の子どもとされている立場で罪の赦しを願っているのです。私たちが『主の祈り』で祈っているのは、「天にまします我らの父よ」と父なる神の子どもとして赦しを求めているのであり、義認の約束と神の子どもという立場を失って赦しを求めているのではありません。神は、クリスチャンになっての失敗や弱さを心痛められますが、義認の約束と神の子どもとしての立場を失わせることなく、父なる神としてなお愛し、手を握り、守り、導き、造り変えて下さいます。何故なら救いの根拠は、キリストの十字架における神の御業にあるからです。その救いの自己認識を持つことは、本当に大切なことです。救われているのだとの恵みを覚える時に、喜びと感謝が内から湧き出て、神と隣人に仕えていく力が与えられていきます。棕櫚の主日、キリストが十字架によって成し遂げて下さった神の御業を覚え神に感謝を捧げましょう。