聖書メッセージ『創造主なる神』(ローマ1:16~20)

聖書箇所

1:16 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。

1:17 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

1:18 というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。

1:19 神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。

1:20 神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。

 

説教要旨

パウロは「ぜひ福音を伝えたいのです(v15)」「私は福音を恥としません(v16)」と記しました。何故福音を伝えたいのか、恥としないのか。「福音は、…信じるすべての人に救いをもたらす神の力です(v16)」何故信じるすべての人に救いをもたらす神の力であるのか。「福音には神の義が示されていて(v17)」と記しました。「神の義(v17)」とは、神と人との正しい関係(状態)を表しています。福音は、神と人を正しい関係とします。パウロはその福音を伝えるために今日の主題である「創造主なる神」と次週見ていきます「人間の罪」を記しました。「神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。(v19)」神は何によってご自身を明らかにされたのでしょうか。第一は聖書によってです。しかし、聖書の土台のないローマの異邦人に向けて、神はご自身を被造物を通し明らかにされていると記しました。(v20)「知らされ(v20)」「はっきりと認められる(v20)」いずれも現在形です。神はご自身を今この時も被造物を通し現され続けておられます。(詩篇19:1)科学は当初造り主なる神の偉大さを明らかにするための学問でした。しかし、18世紀、神よりも人間の理性が上に行き、神を否定した科学が生まれました。

 

聖書が告げる神は、創造主なる神です。(創世記1:1)宇宙は元々あったのではなく、始まりがありました。神がおられ、神が知恵をもって創造されました。神はすべての被造物を造られた後に人間を創造されました。神は土地の塵で人を形造られ、命の息を吹き込まれると、人は生きる者となりました。神は私たちを母の胎の内で形造られました。例外はありません。「すべての人(使徒17:25)」です。神はあなたを造られ、命を与え生かし、この時代この地域に置かれています。神は私たちに向かって仰せられています。「あなたは、わたしのもの。…わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:1、4)」

 

しかし、私たち人間は、自らの造り主なる神を認めず、無視し歩んでおります。(v18)「不敬虔(v18)」とは神を神とせず、神に背いていることです。「不義(v18)」とは私たちの思いと言葉と行いにおいて神の御心に反し、人を悲しませるすべてを指しています。その人間の「不敬虔(v18)」と「不義(v18)」に対し「神の怒り(v18)」が今啓示されています。「神の怒り(v18)」は、私たち人間のように罪深さや利己的な感情を含むものではありません。神に背く不敬虔と神の御心に反する不義に対する神の聖さの応答です。しかし、その不敬虔と不義な私たち人間に今「福音」「神の義(v17)」が啓示されています。神は、ご自身に背き、隣人を悲しませる私たちの罪を御子イエス・キリストに負わせ、御子イエス・キリストを身代わりに十字架で裁かれることにより救いの道をお開き下さいました。私たちの罪を完全に赦し、私たちを深く造り変え、すべてのことを合い働かせて益として導き、やがてこの地上での生涯を終え栄光の体の復活を与えてくださいます。まさに「生きる(v17)」のです。聖書は、神に背を向け神から離れている人生は死んでいると告げます。しかし、神との交わりに生きる新しいいのちが与えられます。どのようによってでしょうか。「信仰によって(v17)」です。神に背を向けていた罪を認め、神がイエス・キリストの十字架によって成し遂げられた神の救いを「信仰」という手を差し出す時、救われます。新しい出発を切ることができます。キリスト者の歩みにおいてもなお罪の弱さは残り、苦難に落ち込みもします。しかし、「信仰に始まり信仰に進ませる(v17)」と、人に新しいいのちを注ぎ続けて下さる神に手を差し出していく時にいのちの歩みが与え続けられていきます。信仰生活は一回の充電式のような歩みではなく、コンセントに差し込んでいるような歩みです。キリストの十字架によって成し遂げられた神の救いを信仰という手を差し出し、是非受け取っていただきたいのです。