聖書メッセージ『神の愛』(Ⅰヨハネ4:9~10)

聖書箇所

4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。

4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 

説教要旨

年間標語「贖われた喜びに生きる教会」を覚え、本日は「神の愛」を第一ヨハネの手紙から見ます。ここでヨハネは、互いに愛し合うことを勧める中で「神の愛」を読者に覚えさせています。(v9~v10)神の愛が私たちに示されたのです。では、神の愛が示された私たちとは、どのような者だったのでしょうか。「世(v9)」とは、神が造られた世界であり、私たちです。しかしまた「世」とは、その造り主なる神に背く私たちのことです。神から離れ、罪の歩みをなしている私たちです。互いに愛することができず、交わりに痛みを抱えている私たちです。罪に腐敗しいている私たちです。

 

しかし、神は、そのご自身に逆らい、罪に腐敗していた私たちを愛してくださったのです。神は、罪の中にあった私たちを憂い、何とか罪の状態から救い、ただただ私たちの益を願われたのです。それは、自発的な愛でした。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し(v10)」私たちが神を敬い、神の愛を呼び覚ますようなことをなしてではありません。神に逆らう私たちの態度に関係なく、神は一方的に私たちを愛してくださったのです。(v19)神は、私たちを愛し、行動に移されました。「神はそのひとり子を世に遣わし…(v9)」「ひとり子」との言葉は、非常に愛された子であることを表しています。その愛する独り子を「…私たちの罪のために、宥めのささげ物として…遣わされました(v10)」神は、聖なる義なる神です。罪を嫌い罪を正しくお裁きになられる神です。私たちは神の御怒りと裁きの下にありました。しかし、神はその怒りを受けるにしかない罪人である私たちを愛してくださったのです。愛する独り子を、私たちの罪の身代わりに十字架に差し出してくださいました。御子を私たちの身代わりに裁かれ、私たちへの怒りが宥められ、救いの道を開いてくださいました。罪を正しく裁かれる神の義と罪人を愛する神の愛のあえるところが、御子イエス・キリストが宥めのささげ物となられた十字架の死でした。神の愛は、感傷的な罪を問わない慈悲の愛ではなく、「聖なる愛」です。

 

その目的は、「…私たちにいのちを得させ…(v9)」るためでした。「いのち(永遠のいのち)」とは、神との交わりを表します。逆に「死」とは、交わりがないことを表します。神が独り子イエス・キリストを遣わし十字架で裁かれたのは、救いの道を開き、主イエスを信じる私たちに神との交わりを与えてくださるためでした。私たちは、罪の故に妨げられていた神との交わりが与えられたのです。そして、神が御子を遣わされた愛は今も私たちに注がれています。神は聖なるお方で、クリスチャンである私たちの罪を確かに悲しまれます。1章にあるようにその罪を神の前に告白するよう導かれています。しかし、神は弱さがあり罪がある私たちを愛しておられます。私たちとともにおられ造り変えてくださいます。私たちは、自らの信仰の状態とそれに伴う行為の調子が良いときには、神に愛されていると思います。しかし、自分の弱さを覚え失敗がある時に落ち込み、神はこんな自分を愛しておられないと感じます。しかし、そうではありません。神は、今罪と闘い弱さがある私たちに変わることなく大洪水のように愛を注がれています。(ローマ5:5)神の愛は、「永遠の愛」です。

 

ヨハネがこの手紙を記したのは、クリスチャンたちが永遠のいのちをもっていることを分からせ、神との交わりの喜びに満ち溢れるためでした。(1:4、5:13)永遠のいのちを与えてくださったのは、神が独り子イエス・キリストを十字架に差し出すほどに私たちを愛してくださったからです。そして、神は今も弱さを覚え失敗のある私たちに大洪水のように愛を注ぎ続けてくださっておられます。イエス・キリストの十字架に示された「神の聖なる愛」、今どんなに弱くてもどんな闘いの中にあっても変わらない「神の永遠の愛」に感謝したいと願います。そして永遠のいのちが与えられていることを確信し、そのいのちに満ち溢れて生かされていきましょう。