聖書メッセージ『新しい生ける道を』(マタイ27:45~51前半)

聖書箇所 マタイ27:45~51前半

27:45 さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。

27:46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

27:47 そこに立っていた人たちの何人かが、これを聞いて言った。「この人はエリヤを呼んでいる。」

27:48 そのうちの一人がすぐに駆け寄り、海綿を取ってそれに酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けてイエスに飲ませようとした。

27:49 ほかの者たちは「待て。エリヤが救いに来るか見てみよう」と言った。

27:50 しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。

27:51 すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

 

説教要旨

本日と次週は、神が御子イエス・キリストの十字架と復活により成し遂げられた救いの御業を見ます。主イエスは捕えられ、裁判を受け、十字架刑と定められました。十字架に架けられた主イエスをありとあらゆる人々が「十字架から降りてみよ」と嘲りました。しかし、主イエスは十字架から降りることはなさいませんでした。「さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。(v45)」「闇」は「神の裁き」を表しています。神は聖い義なる神であられ、神に背く罪と神の御心に反する諸々の罪を正しく裁かれます。私たちは、神の御怒りの下にありました。しかし、その神の怒りは私たちに下されませんでした。(v46)主イエスは神を「わたしの父(マタイ11:27)」と呼ぶ神の独り子で、父なる神との親密な交わりをお持ちであられましたが、父なる神はその主イエスを裁かれ御怒りを下され捨てられたのです。「イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。(v50)」再び大声で叫んだ言葉は「完了した(ヨハネ19:30)」か「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます(ルカ23:46)」であったでしょう。主イエスは十字架から降りることなく、私たちの罪に対する神の怒りの「宥めのささげ物(ローマ3:25)」として自らを献げ、私たちの罪の償いを成し遂げてくださいました。それがイエス・キリストの十字架の死でした。

 

「すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた(v51)」「神殿の幕(v51)」は、人間の罪の故に聖なる神と私たちの間の隔てを示していました。しかし、その幕が裂けたのです。主イエスが十字架上で私たちの罪の償いを成し遂げてくださったので、神の怒りが宥められ、神ご自身が神と私たちの隔てを取り除いてくださったのです。私たちの罪を赦し、神との交わりの道を開いてくださったのです。(へブル10: 20)私たちはイエス・キリストを信じ、罪の赦しと神との交わりが与えられたのです。

 

へブル書は「大胆に」神に近づくことを教えています。(へブル10:19)「大胆に」は「確信を持って」とも訳されます。赦されざるべき者が罪赦された神への畏れはどこまでもあります。(詩篇130:4)しかし、大胆にと、神の前に罪の赦しを得た確信と平安をもって在ることができます。「たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。…(Ⅰヨハネ3:20)」クリスチャンは、この世にあって心の平安がいつも揺るぎなく保たれているというのではありません。神を愛し隣人を愛するとの神の御意志に生きることがどんなに難しいことかを痛感します。自己嫌悪に陥ることもあります。しかし、神の前に罪赦された確信と平安は、私たちの行いにかかってはいないのです。私たちの良心の判定ではありません。神がキリストの十字架によって赦しの道を開いてくださった神の御業にかかっています。大胆に神に近づき神との交わりに生きていくことを神は喜んでくださっておられます。それは祈りへと導かれます。(へブル4:16)(Ⅰヨハネ3:22)主イエスは、神を「私たちの父よ(マタイ6:9)」と呼ぶよう、また「求めなさい。そうすれば与えられます(マタイ7:7)」と祈りの祝福を教えておられます。私たちは、世の闘いの中に置かれています。主イエスが十字架上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか(マタイ27:46)」と叫ばれたような苦しみの中に置かれることもあります。しかし、闘いと苦難の中で、神はご自身との交わりの道を開いてくださっておられます。神は御子イエス・キリストを十字架で捨てられましたが、イエス・キリストが捨てられたことの故に、イエス・キリストに信頼する私たちを捨て去ることは決してありません。折にかなった助けを与えてくださいます。

 

暗闇の中で、神ご自身が開いて下さった神との交わりの道が私たちに開かれています。神との交わりの道は、私たちの行いや信仰の状態によって失われることはありません。罪赦されたことを確信し、父なる神に祈り求め、神から恵みの助けをその時その時に受けて歩んでいきましょう。