いのちの水

  • のどの渇き

暑くなってきました。熱中症が心配されます。夏になると、我が家では、妻が「麦茶を作っても作っても間に合わない!!」と嘆くようになります。

水は、私たちの命に欠かせないものです。イエス・キリストは「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがない」と仰せられました。

 

  • サマリアの女

イエス・キリストは、ある時サマリアの町を訪れました。正午の暑い時間に、ひとりの女性が井戸に水を汲みに来ました。イエスは彼女に声をかけました。「水を飲ませてください。」

そこからイエスとサマリアの女の問答が始まっていきます。イエスは言われました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。(ヨハネ4:13~14)」彼女は、井戸に汲みに来なくてもよくなると考え、「その水をください。」と求めました。

イエスは彼女に言われました。「あなたの夫をここに呼んできなさい。」彼女は答えました。「私には夫がいません。」イエスは言われました。「自分には夫がいないと言ったのは本当です。あなたには夫が5人いたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。」

彼女は5度結婚し、失敗し、6人目の男性と同棲していました。最も暑い時間に水を汲みに来たのは、人目を避け、誰とも会いたくなかったためでした。

彼女にとっての「水」は、男性の愛でした。心の渇きの満たしを男性に求め続けました。しかし、イエスは仰せられました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。」一時的には潤うが、また渇くと。求めて得ても、もっと欲しくなり、それに支配されていくと。

彼女にとって本当に必要なものは、男性の愛ではなく、彼女を造り愛しておられる神との交わりでした。

 

  • 神の前に

宗教改革者ルターは、「今あなたがあなたの心をつなぎ、信頼を寄せているもの、それが本当のあなたの神なのです。」と述べました。

人の態度や起こる出来事が今日の私たちを決めていることがあります。でも、人の嫌な言葉や冷たい態度、苦しい状況を避けることはできません。しかし、それらに支配されないことはできます。イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架に架かり、神に立ち返る道をご用意くださいました。その救いを受け取り、神だけを神として礼拝し、神の前に自分を置き続けていくことです。そこに真の平安と自由の歩みが与えられていきます。

 

  • ある牧師の祈り

ある牧師は、毎朝こう祈るとのことです。「主よ。今、すべての人と、またすべての物との間に距離を取ります。何よりもあなたの近くに生きます。誰よりもあなたに近く生かしてください。…」

私たちを造り愛しておられる神の前に置かれて今日を歩む平安の人生へと導かれたいと思います。

 

守谷聖書教会

牧師 鈴木洋宣