聖書メッセージ『神の愛のすごさ』(ヨハネ福音書8:1~12)

ヨハネ8:1~12

8:1 イエスはオリーブ山に行かれた。

8:2 そして朝早く、イエスは再び宮に入られた。人々はみな、みもとに寄って来た。イエスは腰を下ろして、彼らに教え始められた。

8:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、

8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。

8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」

8:6 彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。

8:7 しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」

8:8 そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。

8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。

8:10 イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」

8:11 彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」〕

8:12 イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」

イザヤ43:25

43:25 わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

 

説教要旨

読まずに通り過ぎたいようなこんな物語が聖書に載っているのは、「贖い」について重大なことが隠されているからです

 

十字架が近づいて来たある日の早朝、一夜をオリーブ山で祈って過ごされたイエスさまは、ケデロン谷を渡り神殿に入られました。既に何人かの人たちがおり、イエスさまは庭で教え始められました。そこへ、数人の律法学者とパリサイ人たちが入って来て、不倫の罪を犯し捕らえられた婦人を投げ出すかのようにして、イエスさまに質問しました。「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」(v5)イエスを罠にかけたのです。

 

イエスさまは、「罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」と答えられ、それからしばらくして、婦人に対して言われました。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(v11)

「わたしもあなたを罪に定めない。」この言葉には、重大な意味が含まれていました。それを明らかにしますとこうなります。

「あなたは今、わたしの前に出ています。

さあ、あなたの姦淫の罪を、わたしに渡しなさい。

わたしがあなたの代わりに刑罰に服します。

わたしが身代わりとなり、あなたの罪を引受けます。

わたしに渡しなさい。わたしと取り引きしましょう。」

 

イエスと名付けられた神の御子の贖いのすごさがありました。神の御子が、自ら進んでの身代わりを申し出てくださったのでした。

 

あなたの身代わりになられたのは誰でしょう。神の御子ご自身なのです。忍耐を持って待っておられます。神の御子イエス・キリストがあなたの前におられるのです。

 

このように、神の御子の犠牲による救いと共に、父なる神の偉大なる意志と宣言がありました。

 

旧約聖書イザヤ43:25

(1)「わたし、このわたしは、」という文章。

旧約聖書が書かれたヘブル語では、2~3語同じ文字を重ねることで強調を現します。更に、この節の特色は、「わたし」という代名詞が普通に使用される「アニィ」という言葉とは違い、「アノキィ」という語が使用されていることです。「アノキィ」(わたしの意味)とは、形式ばった硬い言葉だそうです。イザヤ書では3回(43:11、12、25)だけ使われています。イザヤは、このように言葉を変えてまで、「わたし」即ち「神」を強調しました。この箇所をそのまま言ってみると「アノキィ、アノキィ、フウ」となります。「フウ」は三人称の代名詞で「彼、それ」の意味です。神ご自身が言われるのだということを、最高に強調されているのです。

そのように強調され意識させられた神は、何を言われるのでしょうか。

「わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」と言われました。

 

(2)「わたし自身のために」という文章は少々おかしいです。「あなたのために」なら分かりますが、神ご自身のため、神の利益となることはどういうことなのでしょう。それは、神の創造の目的である「人々を祝福する」ということのためにです。神は、人との間を罪が妨げ、祝福できない状態であることを憂いています。いわば、「人間を祝福することが出来るために」ということになります。この言葉から、神は人間を祝福したくてしょうがないことが分かります。

 

(3)神は「あなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」と決断なさいました。大いなる決断です。すごい宣言です。私達の罪は、キリストの十字架で全て消去されたのです。「罪なし」とされたのです。私たちの記憶にだけあるのであって、実際には何もないのです。神は、思い出せないではなく、思い出さないと主体的に宣言します。これを新約聖書では「新しくなった」と語られています。大いなる奇蹟です。神の愛のすごさを見ます。

 

神は、御子を犠牲にされ、ご自分を捨て、私たちを愛され、招かれました。

 

日本同盟基督教団

教団顧問 斎藤成美 師