聖書メッセージ『神の子どもとされる』(ガラテヤ4:1~7)

聖書箇所 (ガラテヤ4:1~7)

4:1 つまり、こういうことです。相続人は、全財産の持ち主なのに、子どもであるうちは奴隷と何も変わらず、

4:2 父が定めた日までは、後見人や管理人の下にあります。

4:3 同じように私たちも、子どもであったときには、この世のもろもろの霊の下に奴隷となっていました。

4:4 しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。

4:5 それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。

4:6 そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

4:7 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。

 

説教要旨

数週に渡って「義認」「義認に生きる」ことを見ました。本日からは贖われた祝福の二つ目である「神の子どもとされること」「神の子どもとして生きること」を見ていきます。v1~v3は、当時のローマ法の相続人のことを取り上げて、イエス・キリストが来られる前の律法の下にある時と来られた後のことを語っています。当時のローマ法において、相続人である子どもは、全財産の所有者でしたが、子どもであるうちは奴隷と変わることなく、後見人や管理人の下にありました。人々はイエス・キリストが来られる前までは、律法の下にありました。そして、律法が彼らの罪を示し責めました。律法は、人々に罪を示し、救い主イエス・キリストへと導くためのものでした。しかし、「この世のもろもろの霊の下に奴隷となっていました(v3)」とあるように、サタンは、律法を逆さに用いて、人々に罪を示しイエス・キリストへと導くのではなく、「律法を守ることができない。お前は神に愛されていない。」との絶望の中へと導いていたのです。しかし、神は、救いの時が満ちて、御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。(v4~v5)神は、独り子イエス・キリストを「女から生まれた者(v4)」、私たちと同じように「人」としてこの地に与えられました。また「律法の下にある者として(v4)」人々と同じように律法の下、律法を守るべき者として遣わされ、イエス・キリストは律法を完全に守られました。イエス・キリストは人であり、かつ律法を完全に守られた罪の負債のないお方でありましたので、私たち人間の罪の肩代わりをすることがおできになりました。イエス・キリストは私たちの罪の身代わりに十字架に架かられ、神に裁かれ、贖いの御業を成し遂げ、すべての罪を赦してくださったのです。その義認の結果、「子としての身分を受けるためでした(v5)」私たちは神の養子とされたのです。当時の社会において、ある人が、子どもがいない場合、有能な人物を養子とし、自らの財産を相続させる制度がありました。神は、神から離れ、罪の奴隷であった私たちを、罪を赦してくださっただけではなく、神の養子としてくださったのです。但し、当時の社会において養子となることは、有能であることが条件でしたが、神はただイエス・キリストの十字架の故に、価なき私たちを神の子どもとしてくださったのです。

 

「そして、あなたがたが子であるので、神は『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。(v6)」「御子の御霊(v6)」とは、聖霊のことです。「アバ」は、アラム語で家庭内で幼子が父親を呼ぶ最も親しみを表す言葉です。「パパ、父ちゃん」です。旧約聖書が強調していることは、神の「聖さ」です。「聖」という基本的な概念は、分離されているということです。神は創造者・主権者・偉大なお方で、私たちは被造物です。神は罪とは分離された聖いお方で、私たちは罪ある者です。新約時代においても、それは変わりありません。神は、偉大な聖いお方です。私たちは被造物であり罪人です。しかし、旧約時代とは全く異なる新しい恵みが新約時代には加えられました。聖なる神を「アバ」「父ちゃん」と親しく呼ぶことができるようになったのです。私たちは「神のしもべ」です。また私たちは「神に愛されている神の子ども」です。

 

「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。(v7)」父親が子に全財産を相続するように、神は養子とした私たちに神の国(支配)の祝福を与えてくださいます。私たちの頑張りから生まれるものではない、この世が与えてくれるものでもない、5章に入ると「御霊の実」が出てきますが、神は、神ご自身の愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の祝福を与えてくださるのです。

 

神の子どもとされていることを感謝し、父なる神にはばかることなく、素直に近づき、「父ちゃん」と御名を呼び、神の支配の祝福、神の愛、神の喜び、神の平安を受けつつ歩んでいきたいと願います。