聖書メッセージ『平和をつくる者』(マタイ5:9)

聖書箇所 (マタイ5:9)

5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。

 

説教要旨

敗戦記念日と神の子どもとして生きることを覚え、本日は主イエスがなされた山上の説教の「平和をつくる者は幸い(マタイ5:9)」の御言葉に聴いていきます。山上の説教は、主イエスが不特定多数に語られた教えではなく、主イエスに従う弟子たちに語られたものです。クリスチャンに、教会に向けて語られたものです。聖書において「平和」とはどのような意味でしょうか?幅広い意味を持つ言葉ですが、中心は神との平和を土台とした互いの平和の状態を表しています。私たちの置かれた場に喜び、赦し、癒し、尊重、感謝があることです。しかし、私たちの現実は、不和の状態です。不満、苛立ち、言い争いがある、人を責める言葉があります。何故世界に戦争があるのでしょうか。何故私たちの家庭に不和はあるのでしょうか。突き詰めれば人間の罪の問題です。アダムが神に背いた結果、アダムとエバの間に不和が生じました。神に背いた罪から生じる争いの世において、主イエスは弟子たちに「幸いだ、平和をつくる者」とお語りになられました。

 

では、平和をつくるとはどのような歩みをなすことでしょうか?「神の子ども(v9)」とは、神のご性質と似た者を表しています。神のご性質と似た者となること、神のなさったことを繰り返すことが平和をつくる歩みであるのです。では、神はどのように私たちと平和をおつくりになられたのでしょうか。神は私たちを愛し、ご自身をお削りくださいました。私たちの罪の身代わりに独り子イエス・キリストを十字架で裁かれ、和解の道をご用意くださいました。神はご自身の威厳に固執されず、ご自身を卑しくされました。また、主イエスは神の在り方を捨てることはできないとは考えないで、人としてこの地に来られ、私たちの罪の身代わりに十字架の死にまでも従われました。主イエスは自分を救いませんでした。神が、そして主イエスが平和をつくられた行為の基礎は、謙りでした。自分を捨てることでした。平和をつくる者の基礎は、謙ることです。利己心を放棄することです。自分が相手との争いの中で勝とうとしない人です。「負けるが勝ち」の人です。嘲られ、馬鹿にされ、でも言い返したり、仕返ししたりしない人です。損をしている人です。言葉を慎む人です。但し、それはただ自分を抑えるということではありません。最終的な裁きは、私たちが行うのではなく、神が行うと神にゆだねている人です。(Ⅰペテロ2:22~23)

 

では、どのようにしたら平和をつくる人となることができるでしょうか。第一は、自分の内には、拭えない高ぶりと利己的な罪があることを正直に認めることです。第二は、十字架にかけられた主イエスのお姿を絶えず覚えていくことです。それは単に模倣するのではなく、拠りすがっていくのです。具体的には私たちの内におられる助け主なる聖霊に絶えず拠り頼んでいくのです。第三は、神はその平和をつくる者の闘いを、忍耐を、謙りをちゃんと知っていてくださり、顧みてくださることを覚えていくことです。神は私たちの忍耐をちゃんと知っていてくださり、今そして終わりの日に必ず顧みてくださいます。(詩篇56:8)そして、改めて覚えたいのです。主イエスは、平和をつくる者になれと命じてはおられません。主イエスは上から命じられているのではないのです。「わたしは、あなたの闘い、口を閉ざす歩みにともにいる、一緒に戦おう、そして、真の幸いの歩みをなしていこう」と語り、ともにおられ、導いてくだっています。

 

新型コロナウイルスの中で恐れがあります。恐れは人間の不寛容さを露わにさせます。そのような中で私たちは「平和をつくる者」として置かれています。自分の内にある高ぶりを認め、主イエスの十字架の赦しと聖霊の助けを切に求め歩んでいきましょう。神が平和をつくる歩みを今喜んでくださっておられ、やがて終わりの日には豊かな祝福を与えてくださることを覚え、謙りの歩みをなして参りましょう。