聖書メッセージ『天の父の訓練』(ヘブル12:4~11)

聖書箇所 (ヘブル12:4~11)

12:4 あなたがたは、罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません。

12:5 そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。

12:6 主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」

12:7 訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。

12:8 もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。

12:9 さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

12:10 肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。

12:11 すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。

 

説教要旨

へブル書は、ユダヤ人クリスチャンに宛てて記された手紙です。この手紙が書かれたのは、ユダヤ人クリスチャンが同胞のユダヤ人から信仰故の迫害を受け、「心が元気を失い、疲れ果て(v3)」、キリストに従っていく道から離れようとしていたことにありました。(10:32~39)彼らは迫害の中にありましたが、命が奪われるような迫害は未だ受けていませんでした。(v4)著者は今まで直面してきた以上の厳しい苦難があることを予想し語っています。神は神の子どもとされたクリスチャンを愛し、配慮と守りを与えてくださいます。ならば何故苦しみがあるのかとの葛藤が生じます。著者はすっかり忘れていることがあると語ります。(v5~v6)神は苦難を用いてクリスチャンを訓練されることです。愛する者をこそ神は訓練されることです。著者はさらに神は愛する者をこそ訓練されることをv7~v8で告げました。訓練は神の子どもされていることのしるしです。人間の父親は子どもを訓練しますが、それは本当の子どもであるからです。クリスチャンは神の子どもとされたので神の訓練を受けるのです。苦難は神の愛のしるしです。訓練は神の期待のしるしです。神は肉体や精神の苦しみ、そして神の沈黙という霊的苦しみを通し私たちを訓練されるのです。

 

続いて人間の父親と天の父とを対比させつつ、神の訓練の内容を語っています。(v9~v10)人間の父親は、子を放任するのではなくしつけます。期間は「わずかの間(v10)」です。「自分が良いと思うことにしたがって(v10)」罪ある人間ですから、自分が正しいと思っていても、しつけの方法が適切でないことがあります。天の父なる神も神の子どもとされたクリスチャンを訓練されます。しかし、人間の父親とは違って、わずかの期間ではなく、生涯に渡ってです。また、そこには全く罪は入っておりません。「私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようと(v10)」訓練の目的は、私たちをご自身の聖さに与らせることです。神のみを信頼し、罪を離れ、高慢さをへりくだらせ、神の御心に生きる者とされることです。神の訓練には人間の親とは違って誤りは入らないのです。私たちの側からするならば、どうしてこのような苦しみがあるのか、もっと早く助けてもらえたらと思います。しかし、天の父なる神は、誤りなく全ての苦しみを用いて私たちを訓練し聖めてくださるのです。(ローマ8:28)神の訓練に関してまとめています。(v11)訓練の渦中は、喜ばしくなく、苦しいのです。でも、後になると、「義という平安の実(v11)」、神の御側近くを歩んでいる状態、そしてそれに伴う平安が与えられていきます。そして、それはただ私たち自身の平安に留まらず、信仰の弱っている兄弟姉妹の癒しや慰めとなっていきます。(v13)信仰生活は一人旅ではありません。教会がともに神の御国に向かっていきます。その時に訓練された人々は、兄弟姉妹に神の慰めをもたらす者となります。

 

神の訓練において私たちの取るべき姿勢はどのようなものでしょうか。「訓練として耐え忍びなさい(v7)」第一は「訓練として(v7)」とあります。主は愛する者、ご自身の子とされた私たちを苦しみの炉の中で訓練されることを覚えていくことです。苦しいのですが、ただ苦しいのではなく、神の訓練であり、神の期待であることを覚えます。第二は「耐え忍びなさい(v7)」とあります。「耐え忍ぶ(v2)(v3)(v7)」との言葉は「下に留まる」です。「踏みとどまる」「待ち望む」とも訳されます。自分で我慢するというのではありません。主の下に留まるのです。主の訓練から逃げ出さないことです。ずっと主の下に踏みとどまっていくことです。ずっと主を待ち望んでいくことです。

 

神に贖われ、神の子どもとされたことは素晴らしいことです。神の訓練を主のもとに留まって受け、聖められ、真の平安の実を結ばせていただきましょう。また、神の慰めの取り次ぎ手とせられていきたいと願います。