聖書メッセージ『天の父に祈る』(マタイ6:7~8)

聖書箇所 マタイ6:7~8

6:7 また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。

6:8 ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。

 

説教要旨

本日は「天の父に祈る」ことをご一緒に見て参ります。「祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。(v7)」「異邦人(v7)」とは、真の神以外の神々を信じる「異教徒」を表しています。異邦人は、同じ言葉を呪文のように繰り返して祈っていました。主イエスは、祈りにおいて同じ言葉を繰り返すことを否定しておられるのではありません。異邦人が同じ言葉を繰り返したのは「彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。(v7)」と自分たちの祈りの長さにより神々を動かそうとしていたためでした。自分の願望のままに神々を動かす祈りでした。「彼らと同じようにしてはいけません。(v8)」異邦人のように神々を動かそうとする祈りをしてはいけないと仰せられたのです。

 

それは「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。(v8)」主イエスは神を「あなたがたの父(v8)」と弟子たちに仰せられました。新約時代において、神を「父」と親しく呼ぶことができる恵みが新しく加えられました。クリスチャンはイエス・キリストの十字架の贖いによって神の子どもとせられ、神は私たちの天の父となってくださいました。天の父なる神は、私たちの祈りで初めて私たちに関心を置かれるのではありません。(v6)父なる神は、私たちに絶えず関心を置いておられます。また、天の父なる神は、私たちの祈りで初めて私たちに必要なものを知られるのではありません。「知っておられる(v8)」私たちの必要を熟知しておられます。経済的な事柄において(6:19~34)、人との歩みにおいて(7:1~7)、私たちにおいて「必要なもの(v8)」を熟知しておられるのです。ですから、祈りにおいて言葉数を多くして自分の願望のままに神を動かそうとするのではなく、私たちに関心を置き、必要を知っていてくださる天の父なる神に信頼していくのです。こう聞くと、天の父なる神は祈る前から私たちの必要を知っておられるならば、私たちは祈り求めなくても良いのではないかと思うかもしれません。しかし、主イエスが続けられたことは「ですから、あなたがたはこう祈りなさい。(v9)」と祈ることを教えています。さらには、「求めなさい。…(7:7)」と粘り強く、そして熱心に祈り求めることを教えています。

 

こうした祈り求めに、天の父なる神は「良いもの」をお与えくださいます。(7:8~11)「良いもの(7:11)」は、複数形です。天の父なる神は、すべてのことを用いられて、私たちの本当の益となる良いものを与えてくださいます。私たちの注文通りの「時」と「内容」において与えられるのではなく、私たちの本当の益、祝福となるように「時」と「内容」において与えてくだいます。ですから、祈りの答えはしばしば三つであると言われます。第一は「Yes」です。私たちの願いと同じことです。パウロは、戦友エパフロデトが病で亡くならないように神はしてくださったと述べています。(ピリピ2:27)第二は「No」です。私たちの願いとは異なることがあります。パウロは自らの病が治るように祈り求めましたが、治りませんでした。しかし、そのパウロの弱さを通して主イエスの御力が現されたのです。第三は「Wait(待て)」です。今それが与えられないことがあります。詩篇13篇は、ダビデが苦難の中で四度も「いつまでですか」と嘆いている歌です。長い苦しみの中で神に信頼していきます。新約聖書においても、ザカリヤ・エリサベツ夫妻は、子どもが与えられるよう祈ってきましたが与えられず、しかし、年をとった時、バブテスマのヨハネが与えられました。御使いがザカリヤに言ったことは「あなたの願いが聞き入れられた(ルカ2:13)」でした。そして、祈りの実が直ぐに見えず主を待ち望む中で練られた品性が与えられていくことがあるのです。(ローマ5:4)

 

天の父なる神に信頼し、粘り強く熱心に祈り求め、天の父がご用意くださる真の祝福の道を一歩一歩、一日一日歩んでいきたいと願います。