聖書箇所 Ⅰコリント13:12~13
13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
13:13 こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。
説教要旨(待降節第二礼拝)
イエス・キリストの再臨の時には、私たちは体の弱さや罪の苦しみから全く解放された「栄光のからだ」に復活せられます。本日は栄光のからだの復活に続く祝福を見ていきます。コリント教会の内には賜物のことで蔑んだり自己卑下したりという痛みがありました。パウロは「よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい(12:31)」と告げ、13章に入って「愛」を教えています。地において「異言」「預言」「知識」の賜物により主を知るのは一部分であり、主イエスの再臨の時、主を知ることにおいて完全なものが現れたならば、それらは廃れていく、しかし「愛」は絶えることがないと告げました。このことを、さらに詳細に説明しています。「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。(v12)」当時の鏡は、今の鏡のようではなく、曇っていたようです。私たちは、聖書を通し、見えない神を見るようにして信頼し歩んでいますが、どこまでも「鏡にぼんやり映るのを見ている(v12)」状態です。でも、主イエスが来られるときには、神と顔と顔とを合わせ見ることになります。
「今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。(v12)」今、聖書を通し神を知らされていますが、それは一部分です。しかし、主イエスが再び来られるときには、今私が神に完全に知られているように私も神を完全に知ります。大きな慰めを覚えます。「私が完全に知られている(v12)」との言葉は、過去形が使われています。神が私たちを知っていることにおいてこれから増えていくことはないことを表しています。すなわち今すでに神は私たちのことを完全に知っておられます。喜びも、悲しみも、言葉にならない祈りも、葛藤も、闘いも神は完全に知ってくださっています。そして主イエスのご再臨のときには、今神が私を完全に知っていてくださるように、私も神ご自身を、神のご性質を完全に知ることができるのです。どれほどの喜びの時、慰めの時、平安の時でしょうか。「神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。(ヨハネ黙示録21:4)」「ことごとく」は「あらゆる、あらん限りの、一つも欠けがない」との言葉です。地上では「神さま、何故ですか」ということが私たちにたくさんあります。でも、主イエスが再び来られるときには、神は私たちの目のあらゆる涙を一つも欠けなくぬぐい取ってくださり、私たちは神の愛の御心を完全に知り、御名を崇めるようになるのです。
「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。(v13)」廃れていく「預言」「異言」「知識」と対してのものです。「信仰」信頼とも言えるでしょう。神への信頼は、赤子が親に全身を預けて信頼しているように、神と顔と顔を合わせ、ますます真っすぐに深められていくことでしょう。「希望」汲めども尽きぬ神の恵みの栄光がますます現れることを待ち望み続けるのでしょう。「愛」神を愛することはますます深く確かなものとせられていくのでしょう。そして、「その中で一番すぐれているのは愛です(v13)」天の御国での神との永遠の交わりの基盤が「愛」であるからです。私たちの神への「信頼」「希望」「愛」の礎が、神の私たちに対する愛であるからです。
私たちは栄光のからだの復活と神との永遠の愛の交わりが与えられる主イエスの再臨を待降節において切に待ち望みましょう。また、神との永遠の愛の交わりが与えられるのは天国ですが、私たちはただそれを望み見て今を歩むのではありません。「私が完全に知られている(v12)」今神は付け加える事がないほど完全に私たちを知っておられます。神の独り子イエス・キリストをこの地に与えてくださったのは、神が私たちを愛してくださったからです。この日々において痛み、悲しみ、恐れがある中で神は私を愛し、完全に知り、導いてくださることに信頼したいと願います。