聖書メッセージ『人を照らすまことの光』(ヨハネ1:9)

聖書箇所 ヨハネ1:9

1:9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。

 

説教要旨(イヴ礼拝)

「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。(v9)」「世」とは神が造られた秩序だった調和された世界を元々は表しています。神はこの世界を、私たち人間を本当に尊いものとして造られました。しかし、ヨハネは、ここで「世」は暗闇の中にあると告げました。世の中には心痛める事件、コロナ感染拡大の不安や緊張、多くの自然災害があります。また、世の中だけではなく、私たち一人ひとりの歩みにおいても思いがけない苦難にあうことや病に伏せることがあります。人間関係の戦いの中に置かれることもあります。孤独を覚え、赦せない赦されない痛みの中に生きております。聖書は、世と私たちの暗闇の現われは様々であるが、暗闇の根っこは造り主なる神に背を向け神から離れ自己本位に生きていることにあると端的に告げます。「罪」と言います。罪には「力」があり、本来神に造られた素晴らしい世界、私たち一人ひとりが歪められてしまっています。私たちの家庭や働きの場に深い暗闇をもたらしています。皆さまの歩みはどうでしょうか。

 

ある人は自分で一生懸命に暗闇から自らを救い出そうとします。「赦そう」「自分を受け入れよう」「人から認めてもらおう」とします。ヨハネ福音書3章にニコデモという宗教指導者が登場しますが、彼はそうした人物だったでしょう。自分で正しい聖い生活を送ろうとしたユダヤ教のパリサイ派に所属していました。真面目に生き、地位や称賛を得ていました。でも、神に受け入れられたという平安はなかったのです。夜イエスのもとにこっそりと訪ねました。「私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行なっているからです。(ローマ7:15)」私たちは罪の暗闇から抜け出そうと自らするのですが、抜け出せない者であるのではないでしょうか。怒りの暗闇、妬みの暗闇、恐れの暗闇、自己嫌悪の暗闇。物理的暗闇を一生懸命に手で掻き出そうとしても掻き出せないように、私たちは自分の力で罪の暗闇を掻き出すことができないのです。また、私たちは暗闇を解決しようと人のところに行きます。私たちは確かに人に支えられ生かされています。苦しみや悩みを話し、慰められ力づけられます。しかし、人は本当の意味で人を救うことはできないのです。ヨハネ福音書4章にはサマリアの女が登場します。彼女は5人の男性と結婚し、破綻し、6人目の男性と同棲していました。自分のすべてを理解し受け入れてくれる男性を求め、しかし満たされず、次の男性を求めることを繰り返していたのです。私が私の暗闇を掻き出すことができないように、人は私の暗闇を掻き出すことはできません。それは、その人も罪の暗闇を抱えているからです。

 

私たちは深い暗闇の中に生きています。しかし、私たちの暗闇を照らしてくださる「まことの光」がおられます。イエス・キリストです。イエス・キリストは、神の独り子です。(v14)そのイエス・キリストが世の中に来られました。それがクリスマスの出来事です。イエス・キリストは私たちのすべての罪を負われ、私たちの罪の身代わりに十字架で神に裁かれ、「完了した(19:30)」と叫ばれました。神に立ち返る救いの御業を十字架で成し遂げてくださったのです。クリスマスカラーは「赤」と「緑」です。赤はイエス・キリストが十字架で流された血潮を、緑はいのちを表していると言われます。イエス・キリストは十字架に架かり死なれ、私たちに神とともに生きる新しいいのち(永遠のいのち)を与えてくださるために世に来てくださったのです。ニコデモもサマリアの女もイエス・キリストと出会い、新しいいのちの中に歩み出しました。自分も誰も照らすことのできない私たちの闇を照らすために二千年前来られ、十字架で死なれ、復活され、今生きてともにおられるイエス・キリストのご降誕を祝い、イエス・キリストに自らを預け、私たちの闇を照らし続けていただく歩みへと導かれたいと願います。