聖書メッセージ『アーメン』(ヨハネ黙示録22:20~21)

聖書箇所 ヨハネ黙示録22:20~21

22:20 これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

22:21 主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。

 

説教要旨(最終主日感謝礼拝)

2021年最後の主日礼拝を迎えました。ヨハネ黙示録は、イエス・キリストの十二弟子ヨハネが記した書物です。ヨハネがこの書を記したのは、ローマ皇帝ドミティアヌス帝の治世(紀元81~96年)と言われています。ドミティアヌス帝は皇帝礼拝を強要し、教会は迫害されていました。ヨハネもイエス・キリストの証しの故にエーゲ海の孤島パトモスに流刑されていました。(1:9)80歳を超える高齢であったと言われています。そこで神とイエス・キリストに導かれ、直接的には迫害下にある小アジアの七つの教会にこの書を記したのです。(1:4)ヨハネ黙示録は、どのようなことが書かれているのでしょうか。イエス・キリストは十字架に架かり死なれ復活されサタンと罪に勝利されたこと。しかし世は救いが完成するまでサタンの力があり、ローマ皇帝の迫害の背後にはサタンの働きがあること。教会は死にいたるまで忠実にイエス・キリストに従っていくこと。そしてイエス・キリストが再臨し救いが完成することを告げております。イエス・キリストの再臨のときには、罪の世は滅び、救いが完成し、神が私たちとともにおられます。神との永遠の愛の交わりに置かれます。神が私たちの目の涙をすっかり拭いとってくださいます。(21:3~4)それらのことを教会に記し、ヨハネは最後に今日の御言葉を記します。「証しする方(v20)」とはイエス・キリストです。イエス・キリストが言われるのです。(v20)「しかり、わたしはすぐに来る(v20)」「わたしはすぐに来る」とは22章でここが始めではありません。(v7)(v12)イエス・キリストは戦いの中にある教会にご自身に忠実に従う祝福を告げ、報いを携えてすぐに来ると仰せられています。そして、この最後において「しかり、わたしはすぐに来る(v20)」と、教会の信仰の揺れ動きを愛をもって打ち破るように仰せられています。私たちもイエス・キリストへの信頼が揺れ動くことがあります。しかし、イエス・キリストは今仰せられています。「しかり、わたしはすぐに来る(v20)」イエス・キリストが来られ、救いが完成するのはいつであるのかは分かりません。聖書が示しているように一日は千年のようであり、千年は一日のようです。神の時計と人間の時計は違うと言われます。でも、必ずイエス・キリストは来られ、救いの完成があるのです。今戦いがあります。しかし、イエス・キリストは必ずや私たちを救いの完成に導き入れ報いてくださるのです。

 

このイエス・キリストの言葉を聴く応答は「アーメン。主イエスよ、来てください(v20)」です。「アーメン(v20)」は「本当です」「確かです」と信頼を表す言葉です。そしてイエス・キリストの到来を待ち望みます。ヨハネは七つの教会にイエス・キリストへの信頼と待望を励ましています。しかしそれだけでなくヨハネ自身も「イエスにある苦難と御国と忍耐にあずかっている者(1:9)」としてイエス・キリストへの信頼と到来の待望を告白する言葉だったでしょう。イエス・キリストの勝利が見え、戦いが終わりアーメンとしていくのが信仰ではありません。今主が遠く感じるような中で、イエス・キリストの言葉にアーメンとし主を待ち望んでいくのです。

 

最後は祈りの言葉です。「主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように(v21)」ヨハネは教会を覚えイエス・キリストの恵みを祈り、この書を終えました。 私たちはイエス・キリストの再臨による救いの完成を待ち望み、慰めや力を受けていくだけではありません。イエス・キリストは救いの完成まで私たちを放置しておかれることは決してありません。教会の戦いを知っておられ、恵みをもって支えてくださるのです。

 

2021年を終えるにあたってり主の数々の恵みを覚えます。その一方で持ち越す課題や戦いもあります。「過去の思い煩いをキリストの胸の中に眠らせよう(チェンバーズ)」ヨハネがパトモス島において、教会が迫害の中でアーメンとイエス・キリストに信頼したように、私たちも戦いや恐れや弱さを主イエス・キリストの胸の中に眠らせたいと願います。