聖書メッセージ『神の栄光を現す』(ヨハネ21:18~19)

聖書箇所 ヨハネ21:18~19

21:18 まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」

21:19 イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」

 

説教要旨

主イエスは、ガリラヤ湖畔を歩きながら、ご自身を否定したペテロに「わたしの羊を飼いなさい」と牧会の使命を委ねられました。そう仰せられた後、主イエスはペテロに「まことに、まことに、あなたに言います。(v18)」と続けました。主イエスが弟子たちに大切なことを告げるときに用いられた言い回しです。ペテロにご自身を裏切ると告げた時にも用いられました。(13:38)主イエスは、ペテロにこれまでは自分の望むままの歩みをなしてきたと仰せられました。(v18)しかし、これからは牧会者として教会に仕えていく中で殉教の死に至ると告げられました。「両手を伸ばし(v18)」とは、主イエスと同じように十字架刑となることを示していました。そして、死を通し神に栄光が帰されると説明されています。(v19)この預言通り、後にペテロは、ローマ皇帝ネロの時代、イエス・キリストに従い教会に仕えていく中で捕えられ、有罪にされ、刑を受けました。刑を受ける時、伝承によると、主イエスと同じ姿で殉教することは申し訳ないと自ら願い逆さ十字架で死を迎えたと言われています。この主イエスの言葉は、ただ殉教の死に至ることのみを示しているのではなく、これからの歩みにおいて自分に死ぬことを通し神に栄光が帰されていくことをも示していたでしょう。その歩みの延長線上に殉教の死があったのです。

 

私たちの信仰の生涯も自分に死ぬことを通し神に栄光が帰されていく歩みに導かれていくのです。『置かれた場所で咲きなさい』を記された渡辺和子さんは、いやなことを喜んで受けることを「小さな死」と述べておられます。古い自分に死んでいく、「小さな死」の道を歩んでいくことを通し神に栄光が帰されていく歩みへと導かれていくのです。主の教会が建て上げられていくのです。神の愛の豊かな実が私たちの家庭や持ち場で結ばれていくのです。(ヨハネ12:23~26)

 

旬教の死の預言を受け、ペテロはどう思ったのでしょうか。強い不安や恐れを覚えたのではないでしょうか。「まことに、まことに、あなたに言います。(v18)」は、ペテロの裏切りを預言した時以来の言葉でしたが、主イエスを裏切った時の自分を思ったのではないでしょうか。私たちも小さな死の道を歩みたくないとの思いや、そう歩んでいくことに恐れや不安を抱きます。「こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい」(v19)」「従う(v19)」とは、「ついて来る」とも訳されます。(v20)「ついて来る」とは、どういうことでしょうか。主イエスがペテロに先だって歩んでくださるのです。それはちょうどこのガリラヤ湖畔を主イエスが先に歩きペテロが後についていっているのとまさに同じ状況でした。そして、主イエスが先立って歩まれるとは、どのくらい先なのか。それは主イエスと個人的に会話していることを覚える時にペテロの半歩先であったことでしょう。イエス・キリストは私たちに先立って、そして私たちの本当に近くに私たちとともにあって歩んでくださっておられるのです。イエス・キリストの愛を覚えながら、イエス・キリストに導かれながら、私たちは自分に死に主イエスについていく歩みへと導かれていくのです。そして、その歩みは、イエス・キリストが十字架の苦難を経て復活の栄光の道を歩まれたように、確かに人間的には辛いかもしれない、でも自分が望むままを歩んでは決して得ることのできないイエス・キリストがくださる永遠のいのちの喜びと平安の中を歩んでいくことができるのです。 

 

神と隣人に仕える歩み、主の教会に仕える歩み、「小さな死」を続けていくことへの忍耐を失いそうになることがあります。しかし、主イエスは今日仰せくださっています。「わたしに従いなさい。(v19)」主イエスが先立ち近くともにおられます。「愛を知り愛に生きる教会」主イエスに導かれて、この週も新たに「小さな死」へと導かれ、神に栄光が帰される真の幸いと真の喜びの歩みへとひと足ひと足導かれていきたく願います。