聖書メッセージ『安息日の愛』(創世記2:1~3)

聖書箇所 創世記2:1~3

2:1 こうして天と地とその万象が完成した。

2:2 神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。

2:3 神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。

 

説教要旨

神は第六日までに創造の業を完成し、第七日目になさっていた創造の業を止められました。(v1~v2)「やめられた(v2)」は「働きを止めること」を意味し、その名詞が「安息、安息日」です。神は創造の業を止められた故に第七日を祝福し聖なるものとされました。(v3)神は第七日を他の六日とは区別し特別な日とされたのです。神は造られたすべてのものを見られ喜びに満ち溢れました。(1:31)神は創造の業を停止し、第七日を祝福され取り分け、その日、創造の完成を喜ばれたのです。造られた世界を愛でられたのです。そして「祝福する(v3)」は第五日の魚や鳥(1:22)、第六日の人間にも見られました。(1:28)神は魚や鳥が増え、人間が増え働きをなしていく力を与えられたことを表していました。しかし、ここでは生命や意識のない「日」を祝福されたのです。聖書において神が物を祝福するとは、その物を使用する人間に益がもたらされることでした。神が第七日を祝福されたとは、神は第七日に人間に神の祝福をもたらそうとされたのです。即ち、神は創造の業を止め、第七日を創造の完成を喜ぶ日とし区別され、また人とその創造の完成をともに喜ぶ日、人と特別に交わりを持つ日とし、人に特別に祝福を与えようとされたのです。

 

人は、神が第七日に創造の業を止められたように、六日間働き、第七日は働きの手を止め、神の創造の御業を讃え、神と特別な親しい交わりを持ったことでしょう。安息日規定は十戒で初めて定められたものではなく、創造の時に始まったものでした。出エジプト記の十戒では、神が六日間で創造の業を止められ、第七日を祝福し聖別されたことを覚え、神のかたちに造られた人間も神に倣い六日間働き第七日は働きを離れ、神の創造の御業を讃え、神と特別に交わる日と定められました。(出エジプト記20:8~11)イスラエルの民は安息日神の創造の御業を祝い神を礼拝しました。そして、神の創造を讃えることは自らが神に造られた被造物として神に意味づけられることに繋がっていきました。人は神に造られ、生かされ、使命が与えられ、養われていることを覚える恵みを受けたのです。神は安息日全存在をかけて私たちと交わり、私たちを祝福し、創造の喜びに与らせてくださいます。私たちが造られ、生かされ、使命が与えられ、養われ導かれている者であることを覚えさせてくださいます。

 

申命記の十戒では、安息日はエジプト脱出の神の救いの御業を覚えました。(申命記5:12~15)「覚える(申命記5:15)」は、思い起こすだけではなく、神の救いの御業に今与ることをも表していました。神は安息日イスラエルの民に新しい救いの力を与え立ち上がらせたのです。新約時代の教会は安息日にともに集まり神の救いの御業を喜び讃えます。神は私たちを愛し、私たちの罪の身代わりにイエス・キリストを十字架に架け裁かれ、救いの御業を成し遂げてくださいました。神は救いの御業の完成のしるしとしてイエス・キリストをよみがえらされました。ですから教会は神の救いの御業を覚え、キリストが復活された日曜日を安息日とするように次第になっていきました。v3を見ますと他の日については「夕があり、朝があった。第○日。」となっていますが、この第七日にはそれが記されていません。第七日は閉じられていないことを示していると言われています。そうです。神は私たちを安息日の祝福に招かれているのです。

 

「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」を、何か窮屈な決まりごとのように考えないようにしたいと願います。神は安息日全存在をかけて私たちと交わり、祝福に与らせようと私たちを招かれておられるのです。安息日の愛です。神の創造の御業を心より称え、自らの存在と務めが神の創造の喜びに意味づけられていきたいと願います。また、イエス・キリストによる神の救いの御業を讃え、神の救いの力に新たに与り、天の御国の真の安息に向かってこの週新しく歩み出していきたいと願います。