聖書メッセージ『主権の愛』(創世記2:7~9)

聖書箇所 創世記2:7~9

2:7 神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。

2:8 神である【主】は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。

2:9 神である【主】は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。

 

説教要旨

神は土地のちりで人を形造り、いのちの息を吹き込まれると、人は生きるものとなりました。(v7)人は神に造られ、神に命を与えられ、神によって生かされているのです。また、これは人間が他の動物とは全く異なり、神と交わることができる存在として造られたことをも示しております。(1:26~27、v19)神は東の方のエデンに園を設け、そこに形造られた人間を置かれました。(v8)「エデン」とは、語源的には「豊かな水のあるところ」、二義的には「楽しみ」「喜び」です。神はエデンの園に美味しそうな実が実る木を生えさせました。(v9)神は園のどの木からも思うままに食べることを許されました。(v16)エデンの園は神の恵みに満ち溢れていました。

 

神は園の中央に「いのちの木」と「善悪の知識の木」を生えさせました。(v9)「いのち木」は、神と人間の愛の交わりを表していました。(3:22)「善悪の知識の木」は、園における主権者は、神であることを表していました。人は神に造られ生かされ、神によってエデンの園に置かれました。神がエデンの園、人の主権者です。神が主権者であることを示す善悪の知識の木からは食べてはならないと神が命じられたのは(v17)、人に主権者なる神に服従して生きることを求められたのです。人は思いのまま食べて良いとの自由が与えられましたが、その自由は無制限の自由ではなく、制限のある自由でした。神の主権の下に謙って生きることを求められたのです。そんな制限を設けなくて良かったのではないか、神は罪を犯す道をわざわざ用意され意地悪ではないかとの言葉を耳にします。でも、神のかたちに似せて造られた私たち人間もしていることです。親は子を育てる時に、子の意志や思いを基本的には尊重しますが、決して無制限の自由を与えません。危険なところにいくことを自由としません。神が善悪の知識の木を生えさせ、ご自身が主権者であることを示し、ご自身に服従を求められたのは、人を神の主権の前にひれ伏させ、真の祝福の内に生きさせるためでした。そして、その木が「善悪の知識の木」と呼ばれていることにも神の深い思いが表れていました。善い悪いの基準は、神が主権をもってお定めになられていることを意味していました。神が人間の善と悪の判断基準「ものさし」を持っているのです。逆に言えば、善悪の知識の木から取って食べることは、自分の感情や周囲の状況から、神の御心を求めることなく、自律的に、ものの良し悪しを決めるようになるということでした。人間は、神の命令を破り、善悪の知識の木を食べ、罪が世界に入りました。人間が善悪の判断のものさしとなり、人を傷つけ自然を破壊しています。

 

主権者なる神の下に謙って生きることを嫌う心が罪です。罪の力の大きさと罪がもたらす悲惨さを深く思います。しかし、神はご自分に背き、自分中心に生きる私たちを憐れみ、御子イエス・キリストを十字架に架け、罪を赦し、神との交わりを回復させ、主権者なる神の下に生きることができるようにしてくださいました。善悪の知識の木は今はありませんが、神は私たちに律法(十戒)を与えられています。律法は祝福の道しるべです。クリスチャンは、聖霊の助けに弛まず拠り頼み、律法に生きていくのです。自分が思うことではなく、神の御言葉に聴き従っていくのです。私たちは日々の人との関わりや置かれる状況の中で、自分の内に生じる思い(感情)があります。しかし、ただ自分の思いや判断で言葉にし動くのではなく、「主よ、どうしたらよいのでしょうか」と主の前に思いを置き、主の導きを求めます。(Ⅰサムエル8:6、21)祈りはただ願いではなく、神への伺い、相談です。神は神の前に持っていく祈りを聞いておられ、ある時には御言葉によって道を示し、ある時には祈りの中で思いを整えてくださいます。それが神に謙って歩むことです。そこに本当の幸いな歩みがあるのです。愛なる神の主権の下に謙って歩んでいきましょう。