聖書メッセージ『いのちへの愛』(創世記3:21~24)

聖書箇所 創世記3:21~24

3:21 神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた。

3:22 神である【主】はこう言われた。「見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」

3:23 神である【主】は、人をエデンの園から追い出し、人が自分が取り出された大地を耕すようにされた。

3:24 こうして神は人を追放し、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた。

 

説教要旨

棕櫚の主日を覚えつつ創世記の御言葉に聴いて参ります。神はご自身が用意された「皮の衣(v21)」をアダムとエバに着せてくださいました。神は互いの交わりとご自身との交わりの回復の余地を残されたのです。「皮の衣(v21)」とは動物の皮ですから、動物の命が取られたのです。「善悪の知識の木から食べる時必ず死ぬ(2:17)」と言われたのに殺されたのはアダムとエバではなく動物でした。ここには律法において定められた動物のいけにえによる罪の赦し、さらには「世の罪を取り除く神の子羊(ヨハネ1:29)」と言われたイエス・キリストが示されていました。こうして神はご自身の憐れみを備え、人をエデンの園から追放されました。神は罪を嘆かれ人との交わりを断たれました。(v22)それがエデンの園からの追放に表されました。(v23)「大地を耕すようにされた(v23)」とは、v19の神の裁きの言葉を受け生きる苦しみが示されています。「ケルビム(v24)」とは神の臨在を示す天使的存在です。「輪を描いて回る炎の剣(v24)」は神の怒りを象徴し神に近づくことができないようにさせるためでした。神を礼拝する幕屋において神と人とを隔てていた至聖所の幕にケルビムの意匠が織り込まれていました。神は罪と完全に分離された聖いお方であられますから、人は誰も神の前に立てなくなったのです。

 

罪の故にエデンの園を追い出され、罪の苦しみの中に生きた男と女でした。しかし、彼らの腰には神が用意された皮の衣が着せられていました。(v21)それはやがての神の救いの御業、イエス・キリストの十字架を指し示していました。イエス・キリストが十字架で死なれた時に神殿の至聖所の幕が上から下に真っ二つに裂けました。神はイエス・キリストの十字架により神と私たちを隔てさせていた私たちの罪を赦し神との交わりの道を開いてくださったのです。神は人をエデンの園から追放されましたが、その私たち人間に罪の赦しと神との交わりの回復を与えるために、イエス・キリストを私たちの身代わりに神から追放され(マタイ27:46)、私たちに「いのちの木への道(v24)」をご用意くださったのです。神の御怒りがイエス・キリストを裁かれることにより完全に宥められたからです。神と人との交わりの隔てを示す幕が裂かれたということは、イエス・キリストの十字架は私たちに全き罪の赦しをもたらしてくださったのです。神の前にすべて一つも漏れることなく私たちの罪が赦されたのです。

 

罪の全き赦しが与えられ、神との交わりが回復されました。今私たちの歩みは「大地を耕す(v23)」歩みであると言うことができます。この世の戦いの中にあります。家庭においてともに歩んでいく戦い、糧を得ていく戦いがあります。そうした歩みをなしていく上で聖書は告げています。「…私たちは…折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか(へブル4:15~16)」神に正直に祈ることです。イエス・キリストは私たちに神を「アバ」「父ちゃん」と親しく呼び祈るよう教えられました。「助け(ヘブル4:16)」とは世の誘惑に勝利していく力であったり、生活の具体的必要の助け(へブル13:5~6参照)を表しています。神との交わりが回復し、堕落前の神との親しい会話が回復したと言うことができます。「自分が帰る大地を耕すようにされた」ではなく(v19参照)、「自分が取り出された大地を耕すようにされた(v23)」との表現には、神の回復の約束が入っており、神はもろい土の器である私たちに祈りを通しいのち、力、折にかなった助けを与えてくださることが予表されているでしょう。神は祈りを聞かれ具体的な必要を備えてくださいます。神は祈りの中で慰め、癒し、使命を負う力、忍耐を与えてくださいます。祈りと家庭の歩み、祈りと仕事が別々ではありません。人と会う前に神の前に自分を置きます。奉仕の前に祈ります。慣れないクラスや職場に入る前に一言祈ります。折にかなった助けをいただきつつ歩んでいくのです。