聖書メッセージ『御手の愛』(創世記37:1~8)

聖書箇所 創世記37:1~8

37:1 さて、ヤコブは父の寄留の地、カナンの地に住んでいた。

37:2 これはヤコブの歴史である。ヨセフは十七歳のとき、兄たちとともに羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らとともにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを彼らの父に告げた。

37:3 イスラエルは、息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。ヨセフが年寄り子だったからである。それで彼はヨセフに、あや織りの長服を作ってやっていた。

37:4 ヨセフの兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、穏やかに話すことができなかった。

37:5 さて、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。

37:6 ヨセフは彼らに言った。「私が見たこの夢について聞いてください。

37:7 見ると、私たちは畑で束を作っていました。すると突然、私の束が起き上がり、まっすぐに立ちました。そしてなんと、兄さんたちの束が周りに来て、私の束を伏し拝んだのです。」

37:8 兄たちは彼に言った。「おまえが私たちを治める王になるというのか。私たちを支配するというのか。」彼らは、夢や彼のことばのことで、ますます彼を憎むようになった。

 

説教要旨

本日から創世記のヨセフの記事を数回に渡って見、神の摂理の愛を覚えて参ります。ヨセフが17歳の時でした。父ヤコブはヨセフを偏愛し、兄たちはヨセフを憎みました。ヨセフは兄たちがヨセフに伏し拝むようになるとの夢を得意げに話しました。(v5~v8)兄たちはますますヨセフを憎むようになりました。ある時兄たちは羊の世話をするためにヘブロンから80kmほど北のシェケムに出掛けました。ヤコブは息子たちの安否を確認しようと若きヨセフを使いに送りました。ヨセフはシェケムで兄たちに会えず彷徨っていると、一人の人と会い、さらに20km北のドタンに行ったとの情報を得ました。ヨセフが行くと、兄たちはヨセフを殺そうと直ぐに相談を始めました。しかし、ルベンは殺すことに反対し、後に自分で助け出そうとして穴に投げ込む提案をし、兄たちはヨセフを穴に投げ込みました。穴には水がありませんでした。ドタンは「二つの井戸」との意味の地で泉が多く穴に水がないとは通常あり得ないことでした。兄たちは座って食事をし目を上げると、イシュマエル人がやって来るのが見え、エジプトへ下っていくところでした。ユダはヨセフを殺しても何の得になろうと言って穴から引き揚げイシュマエル人に売りました。エジプトの王との接点を暗に示しつつ37章が終わっています。

 

後に、ヨセフは驚くべきことにエジプトの宰相となり、世界的飢饉の中で家族の命を助けました。ヨセフは神を賛美しております。(50:20)神が配慮をもって私たちを導かれるのは、ただ私たちの人生を問題がないようにまた成功するように導かれるのではないのです。神はご自身の栄光が現されるように私たちを導かれるのです。(ヨハネ9:3)また、神はヨセフを導かれ神の民を助け出されました。神は私たちを神の教会が建て上げられていくように導かれます。(Ⅱコリント1:6)また、神はヨセフと兄たちに和解を与えられました。神は私たちを互いに愛し合うように導かれていくのです。そして、逆説的ですが神の栄光が現されるよう導かれることは、結果的に真の意味で私たちが祝福の歩みへと導かれていくのです。神は崇められるが私たちは惨めであるというのではなく、神が崇められるとき私たちの歩みも真に喜びと感謝の歩みへと導かれていくのです。

 

37章には一度も「神」という言葉はありません。しかし、神が人間の思い・会話・罪、名もなき人、一つひとつの状況、そして時の中で導かれヨセフをエジプト王のファラオのもとに遣わされました。罪が肯定されているのではありません。また摂理は宿命論や運命論とは異なります。人間は神のロボットではありません。自由意志が与えられています。神は私たちの自由に意志することや思うことを破壊せず生かされつつご自身の栄光が現れるよう導かれていくのです。「木の葉も草も、雨もひでりも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富も貧困も、すべてが偶然によることなく父親らしい御手によってわたしたちにもたされるのです。(ハイデルベルグ信仰問答27」父親らしい御手によって導かれているのです。神の関与は神秘です。分からないことやこんな苦しみがない方がいいと思うことがあります。でも、そのところにも神はともにおられ、父なる神の御手があるのです。神は私たちを愛しておられます。ヨセフを宰相に導かれヤコブの家族を助け出されましたが、神は御子イエス・キリストを十字架に架けお裁きになられ、私たちのすべての罪を赦し、私たちを神の子どもとしてくださいました。父なる神は神の子どもとされた私たちを愛し、何気ない出来事、思い、人、状況、そして時を用いられ愛の御手によって導いてくださっておられます。渦中は分からずとも、神は私たちの歩みを導かれご自身の栄光を現わしてくださるのです。そして、結果的に、本当に主に感謝し、「主は最善をなしてくださった!」と神を喜び称える真の幸いな日々、生涯へと導いてくださるのです。